『岩窟の聖母』の謎がメチャメチャ楽しい

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、何かと謎に満ちています。 その中でも、特に謎が深いのが『岩窟の聖母』です。なぜでしょうか? その主な理由は、 ■ほぼ同じ構図の2つのバージョンが、ルーブル美術館とナショナルギャラリー、ロンドンに存在すること ■制作過程において、ダ・ヴィンチと絵画依頼者間に報酬についての問題が発生し、それに関する法的書類が絵画の理解(特に制作年度)をより複雑にすること まだまだ分からないことも多いのですが、ここでは最近の新発見を含めながら、『岩窟の聖母』の全体観をつかんでおきたいと思います。ではまず、2つのバージョンを観ましょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1486年頃、油彩、キャンバス(パネルから改変)、199 cm × 122 cm 、ルーブル美術館、パリ レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1499, 1506〜1508年頃、油彩、パネル、189.5 cm × 120 cm 、ナショナルギャラリー、ロンドン 制作背景 制作依頼者 1483年4月、ダ・ヴィンチと、ミラノで活躍していた2人の画家エヴァンジェリスタとジョバンニ・アンブロージオ・プレディス兄弟は、「彫刻に金箔と彩色を施し、3点の絵画を提供する」という契約書にサインします。 それは、ミラノのポルタ・ヴェルチェッリーナにあったサン・フランシスコ・グランデ教会の礼拝堂を拠点としていた宗教グループ「無原罪の御宿り信者会」による祭壇のための依頼でした。この祭壇の木彫(丸彫り、レリーフ)は、すでに1482年に彫刻家ジェコモ・デル・マイノが710リラの報酬で完成させていました。 ダ・ヴィンチらがサインした契約書によると、報酬は材料費込みで800リラ、完成期限は1484年12月8日(無原罪の御宿り祝典の日)となっていました。また契約書には仕様書も添付されており、金箔の質・色の特定や・聖母とともに描かれる人物などが詳細に記されていました。 3人の芸術家への報酬、しかも金箔の調達などを考えると、800リラと言う報酬は、彫刻家ジェコモ・デル・マイノひとりの報酬710リラに比べてかなり低いです。 ところで依頼された3点のうち、祭壇の中央『岩窟の聖母』の左右に設置された絵画2点も現在、ナショナルギャラリー、ロンドンに所蔵されています。 フランシスコ・ナポィターノ?(ダ・ヴィンチの弟子)、『緑をまとったヴァイオリンを持つ天使』、1490〜1499、油彩、パネル(ポプラ)、117.2 cm X 60.8 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン ジョバンニ・アンブロージオ・プレディス、『赤をまとう竪琴を持つ天使』、1495 〜 1499 年頃、油彩、パネル、118.8 cm X 61 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン…

3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』を公開しました

ダ・ヴィンチの生涯はつかみにくい フランシスコ・メルツィ、『レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像』、1515-1517年頃、 27.5 X 19cm、赤チョーク、紙、イギリス王室コレクション いまさらですが、レオナルド・ダ・ヴィンチは世界的に超有名です。では、お聞きいたします。 『モナ・リザ』以外に、どんなアートを制作していたでしょうか? 彼の愛読書は何だったでしょうか? 彼はどのような容貌で、どんな服を着ていたでしょうか? 彼が聞いていたのは、どんな音楽だったでしょうか? 意外にも、これらの質問にサラッと答えられる方は少ないのではないでしょうか。 なぜって、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯って結構分かりにくいのです。謎に包まれていますし、解説書はものすごい分厚かったり、彼の人生のほんの断片だったりして、なかなか俯瞰しにくいのですね。それにアップデートされていない情報が、ネットや出版物にはメチャメチャ多いです。 そこで! このたびダヴィンチ研究所では、最高にユーザーフレンドリーな3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』を公開いたしました。インターネット環境があれば簡単にアクセスでき、特別なアプリや機器も不要です。 「ダ・ヴィンチの5つの部屋」よりフィレンツェの部屋(1500-1508年頃) ダ・ヴィンチの人生を5つの時期に分けて、その時期の彼の部屋を訪れたかのような臨場感で全絵画画作品・愛読書・人物像などを紹介しています。再構築した若き日の容姿もご覧になれます。ついでに、ルネッサンスの流麗な音楽にも癒されてください。 部屋の中にこれだけのダ・ヴィンチの情報をまとめ上げたのは、な、なんと世界初です。 ダ・ヴィンチの偉大なる「創造」と「発見」は、これら5つの部屋の中で爆発しました。彼の知覚が研ぎ澄まされた小宇宙を、おひとりで、ご家族、ご友人とご一緒にお楽しみください。 もちろん、観覧料などは一切いただいておりません。無料教育コンテンツとして配信します。 概要は動画でどうぞ。 プレスリリースは、こちらからご覧いただけます。 というわけで、本日は楽しいお知らせでした!

未完の大作『マギの礼拝』を考察する

クリスマスが近いので、キリスト生誕を主題とするダ・ヴィンチ作『マギ(あるいは東方三博士)の礼拝』を取り上げたいと思います。 『マギ(あるいは東方三博士)の礼拝』というと、ネット上で暗い画像を見かけた方が多いのではないでしょうか。実際には、2012〜2017年の長期にわたる修復保存作業のおかげで、画面は明るくなり、詳細もかなり見やすくなっています。 未完ですが、約100の人物と動物、建築物を含む大作であり、ダ・ヴィンチを知るには絶対に避けては通れない作品です。では、見てまいりましょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『マギの礼拝』、1481年頃、チャコール、水彩、インク、油彩、パネル、244 x 240 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ 作品の概要 絵の内容 イエスの生誕にあたり、マギがユダヤのベツレヘムに礼拝に訪れた際の光景(マタイ福音書2:1-20)を描いています。聖母マリアと幼児キリスト、そのふたりを囲む3人のマギを中心としたピラミッド型の構図となっています。 マギとは一般的に、東方から来訪した「賢人」(賢者)あるいは「王」と訳されますが、その正体は明確ではありません。日本語では「博士」と訳される場合もありますが、博士のイメージとは異なります。 マタイ福音書によると、マギは東方で、ユダヤの王で、神の子として降誕するキリストの新星を発見し、その星を崇拝の目的で追ってきたところ、ベツレヘムへ導かれたと言います。そして、彼らは、聖母マリアと幼児キリストを見るやいなや、ひざまずいて礼拝します。そして贈物として、金・乳香・没薬(ミルラとも呼ばれる死体の保存に用いた香料)を差し出します。 絵画では、3人のマギを異なる年齢(青年・中年・老年)、あるいは文化的特徴を持った衣服で描き分けることがよくあります。ダ・ヴィンチ作『マギの礼拝』では、ふたりの老年、ひとりの中年として描かれています。 描き分けの例を確認しておきましょう。アルブレヒト・デューラー作『マギの礼拝』を見ると、まさに老年、壮年、青年の描写で、しかもそれぞれのエキゾチックな衣服が印象的です。 アルブレヒト・デューラー、『マギの礼拝』、1504、100 × 114 cm、油彩、パネル、ウフィツィ美術館、フィレンツェ 背景 ダ・ヴィンチ作『マギの礼拝』は、フィレンツェ郊外にあるサン・ドナート・イン・スコペート修道院の中央祭壇画として依頼された作品です。依頼主は、聖アウグスチノ修道会の修道士たちでした。 その時の契約書(1481年7月)の一部が残されています。その記述を見ると、ダ・ヴィンチがすでに開始していた『マギの礼拝』制作について、かなり不利な支払い条件が書かれています。 最長で30か月以内に完成すること、報酬300フィオリーニ(1枚約3.5グラムの金貨)分は現金ではなく、土地で支払われること、その土地を3年後に買い上げ、その半分をサルヴェストロ・デ・ジョヴァンニの娘の持参金として銀行に入金すること、顔料や金は自分で調達すること、完成しなかった場合は、作品も土地も放棄することが記載されています。 かなり上から目線な契約ですね。この契約は、レオナルドの父であり、公証人だったセル・ピエーロとサン・ドナート・イン・スコペート修道院とのビジネス関係があったことにより仲介されており、それがかえって事態を複雑化させたようです。 いずれにせよ、1482年、ダ・ヴィンチは、『マギの礼拝』を未完成のまま、フィレンツェを後にし、ミラノへと旅立つことになります。なぜ未完で終わらせたかの理由については諸説ありますが、真意のほどは明らかではありません。 そして、サン・ドナート・イン・スコペート修道院の中央祭壇画は、1496年に画家フィリッピーノ・リッピによって完成します。次に挙げる絵になります。 フィリッピーノ・リッピ、『マギの礼拝』、1496、油彩、パネル、258 cm X 243 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ…

ダ・ヴィンチが最晩年まで攻めた証『聖アンナと聖母子』

ダ・ヴィンチの最晩年の作品のひとつをご紹介しましょう。 クリエーターの晩年作というのは、強い遺志が込められているようで特別なものです。もしかすると「ダ・ヴィンチが最後まで手を入れていたのは本作品だったのかも」と考えるだけでドキドキします。 最晩年作のひとつには他に『洗礼者ヨハネ』がありますが、作風がまったく異なる点が興味深いのと同時に、ミステリアスでもあります。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『聖アンナと聖母子』、1507〜1508年頃から制作開始、油彩、パネル(ポプラ材)、168 cm X 130 cm、ルーブル美術館、パリ ※この『聖アンナと聖母子』を含むダ・ヴィンチの絵画全作品が、「ダ・ヴィンチの5つの部屋」でご覧いただけます。ルネッサンスの臨場感をお楽しみください! 作品の概要 ビジュアル分析 岩山の上に親子3世代―聖アンナ、聖母マリア、幼児キリスト―が集まっている光景を描いています。 幼児キリストは、子羊(生贄のアイコン)とたわむれ、抱こうとしてしています。聖母は、聖アンナの膝に座りながら、幼児キリストを諭すような視線を送り、子羊から引き離そうとしているように見えます。聖アンナは、おそらく岩に座り、その2人を見守るように見つめています。 右上の手前の木は、三世代を描いていることと合わせて解釈すると、神という存在が永遠につながっていることを象徴する「生命の木」であることが推測できます。 背景には、空気遠近法(大気の性質を利用した色による遠近表現)を駆使した遠山が、聖母のドレスの色と呼応するかのように青く、幻想的に広がっています。 作品のバックグラウンド ■制作年代はピンポイントできない 制作年代、依頼者については明らかな証拠があるわけではありません。ただし、資料をつなぎ合わせると、ダ・ヴィンチは、この絵について1500年頃から晩年までという長い期間に渡り、熟考、制作していたことが分かります。 また、実際に制作を開始したのは、そのスタイルの特徴から、1507年頃(1499〜1502, あるいは1503年説あり)と考えられます。 ■本作品は未完成 ダ・ヴィンチは、『聖アンナと聖母子』を完成していません。メトロポリタン美術館キュレーター、カーメン・バンバックは、2012年の保存修復後に調査し、特に人物のモデリング(聖母の顔を含む)と仕上げ部分について未完成であることを指摘しています。 ■依頼者は誰か? 依頼者については、複数説あります。ひとつをご紹介しますと、ルイ12世説があります。彼が、アンナ・ド・ブルターニュ(シャルル8世の元妃)を妃として迎え、娘クロードの誕生(1499年10月)が依頼のきっかけとなったと考えられます。聖アンナと妃が同名であることも辻褄が合います。 しかし、何らかの原因により、この作品は依頼者の手元には届けられませんでした。というのも、1517年にはまだ、ダ・ヴィンチの手元にあったことが判明しているからです。そして翌年1518年に、フランソワ1世が購入し、ダ・ヴィンチの弟子サライに多額の金額が支払われています。 しかしながらこの説にも疑義が唱えられていますし、その昔、有力だったフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツイアータ聖堂からの委嘱説はおおかた否定されています。決定的情報は、今のところまだ出てきていません。 ■ナショナルギャラリー、ロンドンにある下絵との関係 ナショナルギャラリー、ロンドンには、『聖アンナと聖母子』制作の準備段階で描かれた下絵が存在します。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』、1499〜1500年頃、141.5 x…

ダ・ヴィンチ戦慄のデビュー作『受胎告知』

ずっと知覚の話になっていましたので、今回は、久しぶりに ダ・ヴィンチ の絵画に触れましょう。 そもそも ダ・ヴィンチ の絵画を含めて宗教絵画は、知覚力を鍛えるのは理想的なのです。その辺のお話は、いつかまたゆっくりしたいと思います。 さて、現存するダ・ヴィンチ作品の中で、最も古い絵画が『受胎告知』です。 『イエスの洗礼』や『大天使ラファエロとトビアス』もありますが、ダ・ヴィンチはそれらの制作に部分的にしか関わっていません。 『受胎告知』の方は、ほとんどの部分以上をダ・ヴィンチが制作した可能性が高いです。 何が私たちをときめかせるかと言えば、20代のダ・ヴィンチが並々ならぬ情熱と、成熟した時にいったいどんな並外れた絵を描くのだろうという期待感です。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『受胎告知』、1472〜1473年頃、98 cm X 217 cm、 ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 作品の概要 内容 「受胎告知」とは、キリスト教絵画の中で最も多く描かれるトピックのひとつです。 新約聖書ルカによる福音書 1:26-39 を絵画化したものです。神の使命を受けた大天使ガブリエルが、ガリラヤの町ナザレの処女マリアを訪れ、ジーザスという名前の息子を受胎したことを知らせるその瞬間です。 大天使ガブリエルは左手に白のユリ(純潔のイコノグラフィー)を持ち、右手は祝福のサイン(人指し指と中指を伸ばし、他の指は閉じる)を示しながら跪いています。その場所である囲まれた庭には、草花が絨毯のように咲き乱れています。囲まれた庭(Hortus conclusus)は、マリアの処女性のシンボルでもあります。 一方、マリアは読書中で、大理石の装飾的な台座がついた聖書台に置かれた聖書のページを押さえながら顔を上げ、この訪問に対して、左手で驚きを表現しています。 家の外には、幾何学的な木々が並び、その向こうには、岡、船が見える港町、遥か彼方には高い山々がかすかに見えます。その港町の風景の中心は、ちょうどこの絵の消失点としての役割を果たしています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『受胎告知』後景部分、 ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 背景 この『受胎告知』は、1867年にフィレンツェのサン ・ バルトロメオ ・ モンテオリヴェート教会から、ウフィツィ美術館に持ち込まれましたが、それ以上の来歴については詳しく分かっていません。 作者は、ダ・ヴィンチではなく、彼の恩師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ、ドメニコ・ギルランダイオと疑問視されることがありました。…

ドキュメンタリー映画『ロスト・レオナルド』

レオナルド・ダ・ヴィンチあるいは彼と工房による作品、『サルバドール・ムンディ』、1500年頃、45.4cm × 65.6cm、木製パネル(くるみ材)サウジアラビア王太子ムハンマド・ビン・サルマーン所有、所在不明 『サルバドール・ムンディ』の謎に包まれた軌跡  今年6月、米国トライベッカ映画祭にてプレミアム上映されたドキュメンタリ―映画『ロスト ・ レオナルド(失われたレオナルド)』が、8月13日から米国で一般公開されています。 この映画の主役は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作かどうかの真贋がわからないまま、所在さえも不明となっている絵画『サルバドール・ムンディ』。その絵の発見から、現在に至るまでの紆余曲折したミステリアスなストーリーを追っています。「ダ・ヴィンチ作だとしたら……」というワクワク感と、本物だった場合の膨大な金銭的価値によって翻弄された一枚の絵画の軌跡とも言えますね。 (映画についてではなく、絵画自体の軌跡の方は、別エントリーに詳しく書きましたのでそちらをご覧ください) https://www.youtube.com/watch?v=j0lXLGgQjYY デンマークの監督による美しいアートフィルム この映画ですが、日本でも公開されたらいいなと期待しております。と言うのも、ものすごく良くできたドキュメンタリーだからです。 デンマーク人の監督アンドレアス・コーフォード(Andreas Koefoed)が、初めて製作したアートフィルムなのですが、信じられないくらい優れた仕事をしています。 まず、色・光・カメラアングルが、非常に美しい! それと、 『サルバドール・ムンディ』 の真贋に直接的に関わった人々――アートディーラー、保存修復士、キュレーター、オークションでのバイヤーとセラー、アートジャーナリスト、ダ・ヴィンチ研究者など――のインタビューが抜けなく集められています。 永遠に残るフィルムですから、これだけの人々にインタビューで「真贋」を証言してもらうには、相当の説得力が必要だったでしょうね。将来、科学的手法で真贋にケリがついた時、専門家である自分が偉そうに反対のことを主張していたら、恥ずかしい気持ちが否めないでしょうから。 インタビューのカメラワークも工夫されていて、人が中央に座って真正面から撮影しています。証言台に立たされているようで、特徴的です。これ、実はコーフォード監督のねらいで、 『サルバドール・ムンディ』 の真正面向きの構図と重ねていたことを後で知りました。 『ロスト・レオナルド』 の監督、アンドレアス・コーフォード © Erika Svensson/Sony Pictures Classics 『サルバドール・ムンディ』は今どこに? 『サルバドール・ムンディ』…

未完の『荒野の聖ヒエロニムス』はいつか絶対に観たい

ダ・ヴィンチ作品の真贋には、さまざまな議論があります。 その中で、この『荒野の聖ヒエロニムス』は未完成にもかかわらず、真作であることを疑う余地がない数少ない作品のひとつです。なぜでしょう? この作品にはダ・ヴィンチしか描くことのできない独自性が詰まっているからです。 もしも完成していたら、ダ・ヴィンチ以外にも多くの画家たちが手がけた『荒野の聖ヒエロニムス』の中で、異彩を放つ圧巻の作品になってことは間違いありません。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『荒野の聖ヒエロニムス』、103 cm × 75 cm、1482年頃、油彩、テンペラ、パネル(クルミ材)、バチカン美術館、バチカン ※この『荒野の聖ヒエロニムス』を含むダ・ヴィンチの絵画全作品が、「ダ・ヴィンチの5つの部屋」でご覧いただけます。ルネッサンスの臨場感をお楽しみください! バックグラウンド この作品が知られるようになったのは、19世紀アートコレクターで、ナポレオン・ボナパルトの叔父であるフランス聖職者ジョゼフ・フェッシュ(1773〜1839)のコレクションになってからのことです。 ポプラ材パネルに描かれたこの絵は、異なる場所で5分割された状態で発見されました。どうしてバラバラになったのか、そのいきさつについては分かっていませんが、奇跡的につなぎ合わされて蘇りました。 ダ・ヴィンチは、この作品を死ぬまでずっと手放さなかったのかもしれません。というのも、1525年の時点では、弟子サライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ)の所有物リストに2点の聖ヒエロニムスの絵画が記録されていて、そのうちの一点である可能性が高いからです。 作品の概要 題材 聖ヒエロニムス(347年頃 〜419/420年、記念日9月30日)は、西洋における4人のキリスト教の父(他は、アウレリウス・アウグスティヌス、アンブロジウス、グレゴリウス1世)のうちのひとりです。 また、聖書をギリシア語とヘブライ語から、ラテン語に翻訳しました。20世紀半ばまでカトリック教会における正式な聖書として知られるウルガタ聖書です。 『荒野の聖ヒエロニムス』は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230年頃〜1298年)著『黄金伝説』の内容に影響を受けた描かれた可能性が高いです。『黄金伝説』とは、キリスト教の聖者たちの列伝で、ルネッサンス期にはイタリア語版だけで異なる11バージョン存在するほどに人気がありました。 ヤコブス・デ・ウォラギネ、『黄金伝説』、1290年頃 Photo:Sailko 聖ヒエロニムスには、ヘブライ語やギリシャ語を研究する「学者としての側面」もありますが、『黄金伝説』が強調したのは、カルキスの砂漠(シリア)砂漠で約4年間隠遁(374〜378年頃)し、壮絶な気候の中で、孤独や欲望と戦う「苦行者としての側面」です。 言うまでもなく、ダ・ヴィンチの『荒野の聖ヒエロニムス』は後者に焦点を合わせています。 内容 ローブをまとっただけの聖ヒエロニムスを画面中央に配し、岸壁とその奥に水面が広がる風景を背にし、左足を跪いています。その表情は、人間の限界をキリストへの献身で克服しようとする壮絶な魂の葛藤が描写されています。 石を握った右手を伸ばしていますが、これは聖ヒエロニムスのイコノグラフィーです。彼が苦行中に、邪悪な欲望を鎮静するために石で胸を打っていたことに由来します。 聖ヒエロニムスと言えば、ライオンと、十字架上のキリストも頻繁に一緒に描かれます。ここでは、ライオンは聖ヒエロニムスの前に横たわり、吠えているようです。十字架上のキリストは、右端にかすかに見えます。十字架上のキリストの左側には、教会があります。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、「荒野の聖ヒエロニムス」部分、バチカン美術館、ローマ ライオンは、聖ヒエロニムスがライオンの足に刺さった棘を抜き、治療して以来、共に過ごすようになったという伝説に由来しています。ダ・ヴィンチは実際にライオンを見たことがあり、その身体と尾のしなやかなカーブが確かな輪郭で描かれています。 ここが革新的 構図が斬新 岸壁の2か所からその奥を望む背景、聖ヒエロニムスとライオンの配置が斬新です。『荒野の聖ヒエロニムス』が、数年後に手掛けた『岩窟の聖母』への脚掛けとなっていることは明らかでしょう。岸壁の2か所からその奥を見渡せる背景も、そして中央で跪く聖母も酷似しています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1486、油彩、キャンバス(パネルから改変)、199 cm…

『モナ・リザ』はなぜ名画なのか?Part I

世界一有名な絵画と言えば、やはり『モナ・リザ』。そして、世界一高価な絵でもあります。 パリのルーブル美術館では、毎年約1000万人に観覧されています。また、世界一高額の保険査定8億2千万ドル(日本円で約1066億円)がつけられる名画中の名画としての地位を確立しています。 でも実際のところ、あまりにもおなじみ過ぎて、よく観たことがないという方も多いのではないでしょうか。 そこでダヴィンチ研究所としては、その名画たる理由をここにまとめておきましょう。ではまずは絵をじっくりと観てください。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『モナ・リザ』、1503年より制作開始、77 cm × 53 cm、油彩、パネル(ポプラ材)、ルーブル美術館、パリ ※この『モナ・リザ』を含むダ・ヴィンチの絵画全作品が、「ダ・ヴィンチの5つの部屋」でご覧いただけます。ルネッサンスの臨場感をお楽しみください! 作品の概要 背景 この作品は、『ラ・ジョコンダ』または『リサ・デル・ジョコンダ』と呼ばれることもあります。前者は「ジョコンダ婦人」という意味で、後者はこの女性の名前をということになります。 ダ・ヴィンチの死後、弟子サライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ)が所有しており、彼の所有物リストには『ラ・ジョコンダ』と記載されていました。 『モナ・リザ』という呼称のモナは、madonna (マドンナ)の短縮形でイタリア語では通常 monnaと綴られます。英語では一般的には、mona となっています。 では、リサ・デル・ジョコンダ(1479〜1542)とは、どんな人物だったのでしょうか? シルク商人フランシスコ・デル・ジョコンダの2番目か3番目の妻です。ダ・ヴィンチがこの作品の依頼を受けることになったのは、ダ・ヴィンチが、ジョコンダ家の礼拝堂があったサンティッシマ・アヌンツィアータ教会に滞在した1500年にフランシスコと出会ったからではないかと考えられます。 サンティッシマ・アヌンツィアータ教会、フィレンツェ、イタリア Photo: Max Ryazanov (17 September 2013). ダ・ヴィンチが描き始めた1503年10月の時点で、彼女は24歳、結局彼は最期までこの作品を手放すことなく死を迎えた時に、彼女は40歳ということになります。彼女は、夫妻の子供たち6人のうち、5人の母でもありました。 かつては、『モナ・リザ』の制作年代とその人物についての議論がありましたが、2005年に決定的資料が発見され、もはやその2点については疑う余地がなくなっていますのでご注意ください。 ここが革新的! 異次元的テクニック 『モナ・リザ』は、斜め前を見ている座った姿勢のジョコンダ婦人を、手まで含んで半頭身を描いた肖像画です。 ただし、それだけの肖像画ですと、美術史上のレボリューションとは言えません。なぜならば、すでに前例があるからなのですね。 ハンス・メムリンク、バーバラ・ヴォン・ヴランデンバーグの肖像、1480年頃、37…

ウィトルウィウス的人体図を探る

レオナルド・ダ・ヴィンチ、『ウィトルウィウス的人体図』、1490年頃、34.3 cm × 24.5 cm、アカデミア美術館、ベニス 保存上の理由から、6年に一度、わずか2週間ほどしか展示されないデリケートな作品です。 2019年ルーブル美術館で開催されたダ・ヴィンチ没後500年を記念する展覧会では、文化遺産保存グループがイタリアからフランスへの移動に耐えられないとして抗議したため出品が危ぶまれましたが、最終的には許可されました。 2019年ルーブル美術館、パリで展示されたレオナルド・ダ・ヴィンチ、『ウィトルウィウス的人体図』www.practicaespanol.com 作品について ドローイング部分 『ウィトルウィウス的人体図』は、「人間の普遍的なプロポーション」をビジュアル化したものです。 成人の裸の男性が、両手、両足のポーズを変えると、正方形と円のどちらにも収まるように描かれています。 30代だったダ・ヴィンチ自身ではないかという説もありますが、強い根拠があるわけではありません。 オフホワイトの紙に、ペンを使って茶色のインクで描き、鉛尖筆(lead point)が使用された部分には筆で茶色の滲みをつけています。他に、ピン、カリパス、定規、コンパスも使用されています。 テキスト部分 ドローイングの後に、その上下に、テキストをミラーライティング(鏡文字)で書き込んでいます。鏡文字とは、左右を反転させて書かれた文字です。 このテキストは、古代ローマ時代の建築家/軍事エンジニアであるウィトルウィウス( 紀元前80–70 年頃 〜 紀元前15 年以降)の著書『建築論(De architectura libri decem)』第3巻の内容の一部をパラフレーズしたものです。 ■上部テキスト レオナルド・ダ・ヴィンチ、『ウィトルウィウス的人体図』、上部テキスト部分 建築家ウィトルウィウスは、建築に関する著書の中で人間の身体のサイズは生来的に次のように配分されていると述べる。 4本の指は手の平の幅、手の平の幅4つ分は、1足の長さ、手の平の幅6つ分は、キュービット(中指の先端から肘までの長さ)に等しい。 キュービット4つ分は、身長と等しい。そしてキュービット4つ分は、歩行の1ユニット(3ステップ)に等しい。手の平24個分が、身長となる。こうした割合を、彼は建築物にも使用している。 もしも足を大きく広げると、身長はその14分の1低くなり、腕を広げて中指が頭の頂点レベルに挙げると、手足の中心はおへそということになり、足の間の空間は、二等辺三角形である。 ■下部テキスト レオナルド・ダ・ヴィンチ、『ウィトルウィウス的人体図』、下部テキスト部分 人間の広げた腕の長さは、身長に等しい。…