『岩窟の聖母』の謎がメチャメチャ楽しい

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、何かと謎に満ちています。

その中でも、特に謎が深いのが『岩窟の聖母』です。なぜでしょうか?


その主な理由は、

ほぼ同じ構図の2つのバージョンが、ルーブル美術館とナショナルギャラリー、ロンドンに存在すること

■制作過程において、ダ・ヴィンチと絵画依頼者間に報酬についての問題が発生し、それに関する法的書類が絵画の理解(特に制作年度)をより複雑にすること


まだまだ分からないことも多いのですが、ここでは最近の新発見を含めながら、『岩窟の聖母』の全体観をつかんでおきたいと思います。ではまず、2つのバージョンを観ましょう。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1486年頃、油彩、キャンバス(パネルから改変)、199 cm × 122 cm 、ルーブル美術館、パリ

レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1499, 1506〜1508年頃、油彩、パネル、189.5 cm × 120 cm 、ナショナルギャラリー、ロンドン

制作背景

  • 制作依頼者

1483年4月、ダ・ヴィンチと、ミラノで活躍していた2人の画家エヴァンジェリスタとジョバンニ・アンブロージオ・プレディス兄弟は、「彫刻に金箔と彩色を施し、3点の絵画を提供する」という契約書にサインします。

それは、ミラノのポルタ・ヴェルチェッリーナにあったサン・フランシスコ・グランデ教会の礼拝堂を拠点としていた宗教グループ「無原罪の御宿り信者会」による祭壇のための依頼でした。この祭壇の木彫(丸彫り、レリーフ)は、すでに1482年に彫刻家ジェコモ・デル・マイノが710リラの報酬で完成させていました。

ダ・ヴィンチらがサインした契約書によると、報酬は材料費込みで800リラ、完成期限は1484年12月8日(無原罪の御宿り祝典の日)となっていました。また契約書には仕様書も添付されており、金箔の質・色の特定や・聖母とともに描かれる人物などが詳細に記されていました。

3人の芸術家への報酬、しかも金箔の調達などを考えると、800リラと言う報酬は、彫刻家ジェコモ・デル・マイノひとりの報酬710リラに比べてかなり低いです。

ところで依頼された3点のうち、祭壇の中央『岩窟の聖母』の左右に設置された絵画2点も現在、ナショナルギャラリー、ロンドンに所蔵されています。


フランシスコ・ナポィターノ?(ダ・ヴィンチの弟子)、『緑をまとったヴァイオリンを持つ天使』、1490〜1499、油彩、パネル(ポプラ)、117.2 cm X 60.8 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン

ジョバンニ・アンブロージオ・プレディス、『赤をまとう竪琴を持つ天使』、1495 〜 1499 年頃、油彩、パネル、118.8 cm X 61 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン

  • 報酬をめぐる議論

さて、報酬を巡る問題が表沙汰になったのは、契約から約10年を経た1493年頃のことでした。ダ・ヴィンチとアンブロージオ・プレディス(エヴァンジェリスタは1491年死去)が、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへその仲裁を依頼した手紙が残っています。

この手紙の中で、ダ・ヴィンチは、800リラどころか、8000リラ以上の費用がかかっていること、『岩窟の聖母』には4倍の値段を支払う意思のある人物がいることが切々と訴えられています。

この報酬の問題は、ダ・ヴィンチが1499〜1506年6月にミラノを離れ、フィレンツェにいる間も、アンブロージオ・プレディスによって続けられました。そして遂に1506年4月、まだ未完成だった『岩窟の聖母』を2年以内に完成させることを条件として、追加の200リラが支払われるとして調停が成立しました。

ダ・ヴィンチは、おそらく1499年までに相当レベルまで完成していた『岩窟の聖母』の最後の仕上げを1506年にフィレンツェに戻って行い、遅くとも1508年8月18日までに祭壇に設置していたことが法的書類から分かります。


絵画の内容

  • 仕様書とは全然違った!

現存する『岩窟の聖母』は、「無原罪の御宿り信者会」による仕様書とはかなり異なります。

彼らが仕様書で指定したのは、聖母と幼児キリストその周りを天使たちの一団と2人の預言者が囲み、左右のパネルはそれぞれ4人の天使を描くことだったからです。

  • どこが違うの?

実際の『岩窟の聖母』は、聖母と幼児キリストを描いているものの、指定されていない洗礼者ヨハネ(聖母のケープの下)を登場させ、天使の一団は、大天使ウリエルひとりに替えられています。また預言者の姿はなく、左右のパネルも天使2人だけに留まっています。

背景は、見たこともないような幻想的な岩が深く連なっています。その岩に囲まれた植物が茂る場所に4人を円陣で配し、独特なハンドジェスチャーと視線で心を通じ合わせている瞬間をとらえています。

岩山は、荒野のイコノグラフィーとして宗教画に描かれることが多いのですが、ここまで広範囲に画面を覆い、しかも緻密に描いたのは後にも先にもありません。


フィリッポ・リッピとその工房、『キリストの降誕』、1445年頃、油彩、テンペラ、パネル、23.2 x 55.3 cm、ナショナルギャラリー、ワシントンDC

ルーブルが先か、ナショナルギャラリーが先か?

2つのバージョンの違いは、絵のサイズ、大天使ウリエルの手の位置、聖ヨハネの十字架の有無、彩色、聖母、キリスト、洗礼者ヨハネの金輪の有無、植物の種類、スフマート技法の施し方などが挙げられます。

しかしながら、その違いやその他の証拠はただちに制作年代や2つのバージョンが誕生した経緯を決定づけるほど強いものではありません。そのため、研究者の中にはさまざまな意見があります。ここでは多数説を挙げておきましょう。

  • 多数説

多数説をシンプルに解説しますと、ルーブルバージョンが先に祭壇のために制作し始められたとします。ところが報酬の問題によって、ダ・ヴィンチは別の人に売ることになり、ナショナルギャラリーバージョンを代替として制作したと考えています。

  • だったら、新発見はどう考える?

2019年、ナショナルギャラリーバージョンに大発見があったことはご存知の方もいらっしゃるかもしれません。インフラレッド透視画像によって、まったく異なる下絵が存在したことが分かりました。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、 1483〜1499、 1506-8年頃、 すべてのテクノロジーで得た情報から下絵を描き起こしたイメージ © The National Gallery, London

この下絵をどう解釈するのかが、また難問となりました。

■もしも多数説で解釈すると……

ルーブルバージョンを売却してしまったダ・ヴィンチは、代替作品を全く異なる構図で描き始めたことになります。しかし何らかの原因で、やはり元々の構図に戻ったというシナリオです。

■ルーブルバージョンよりも先に描かれたのでは?

埋もれていた構図は、ダ・ヴィンチがルーブルバージョンの構図よりも先に構想していたものです。それは『岩窟の聖母』より少し早く描かれたとされる『荒野の聖ヒエロニムス』の頭と手のポーズに似ています。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、「荒野の聖ヒエロニムス」、103 cm × 75 cm、1482年頃、油彩、テンペラ、パネル(クルミ材)、バチカン美術館、ローマ

メトロポリタン美術館キュレーターカルメン・バンバックは、この下絵は少なくともナショナルギャラリーバージョンが先に描き始められたことを示す証左ではないかと述べています。バンバックは、ダ・ヴィンチが祭壇のためにさまざまな聖母のポーズを検討していたスケッチも取り上げています。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、構図デザインのためのスケッチ『キリストを崇拝する聖母』、1480〜1485年頃、インク、ペン、シルバーポイント、19.3 x 16.2 cm 、メトロポリタン美術館、ニューヨーク

ルーブルバージョンで新しい構図を選択し、ナショナルギャラリーバージョンでは昔の構図を試してからやっぱり元に戻ったとなると、ダ・ヴィンチの常に革新的な態度とはマッチしないのは一理あります。

いかがでしたでしょうか。絵画の謎解きってメチャメチャ楽しいですよね。とにかく、次なる発見が楽しみです!

ダ・ヴィンチの知的な創造空間は、3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』でご覧いただけます。ルネッサンスの美しい音楽もご一緒にどうぞ!