『アイルワースのモナ・リザ』―真贋はいかに?

ブログで書くには複雑なので後回しにしてきたトピックについて、意を決して書くことにしました。 それは、もうひとつのモナ・リザと言われ、ルーヴル美術館蔵『モナ・リザ』よりも早い時期に描かれたと考えられている『アイルワースのモナ・リザ』です。 ご存じの方も多いと思いますが、『モナ・リザ』には数多くのコピーが存在しております。その中のほとんどにレオナルド・ダ・ヴィンチは関わっていないことで決着がついています。 その一方、『アイルワースのモナ・リザ』は真筆であることを支持している研究者、著名コレクターが存在していてその真贋は混迷状態です。 今回は、その『アイルワースのモナ・リザ』についてわかりやすくまとめて共有してまいります! なお、ルーヴル美術館蔵『モナ・リザ』の基本情報は別エントリーをご高覧ください。 まずは観察してみてください レオナルド・ダ・ヴィンチ、『モナ・リザ』、1503〜1506年、おそらく1517年頃まで、77 × 53 cm、油彩、パネル、ルーヴル美術館 Photo: Wikipedia 『アイルワースのモナ・リザ』、16世紀前半、84.5×64.5 cm、油彩、キャンバス、匿名の国際コンソーシアム所有、Photo:Wikipedia ビジュアルから考察する まずは、ビジュアルから比較してみましょう。 アイルワースの方は、より若い女性が描かれ、円柱が柱礎だけでなく柱部分も含まれています。また、背景は、下3分の1は岩肌と林ですが、上3分の2が褐色で残されている点から未完成に見えます。 若い女性であることが、この作品が真筆と考えれる大きな理由とされています。なぜなら、ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を描いていたのが1503年であることは、フィレンツェの役人だったアゴスティーノ・ヴェスプッチ(1454-1512)が記しているからです。その時、リザ・デル・ジョコンドは24歳ですから説得力があるわけです。 女性は、顎のラインがシャープで、額、目の横幅がやや広いです。また、頭だけが前のめりになっています。 全体的に暗い色調を好みながら、ゴールドの光が差すような陰影の強いコントラストをつけています。 手も比較してみましょう。画家のスタイルや技量が出やすい部分です。下のアイルワースは美しいのですが、ニュアンスがなさすぎて不自然な印象を持ってしまいます。いかがでしょうか。 『モナ・リザ』と『アイルワースのモナ・リザ』の手の比較、Photo:Wikipedia 付け加えまして、アイルワースの方は、キャンバスに描かれています。これは、ダ・ヴィンチが木製パネル、特にポプラ材を好んだことに矛盾しています。 来歴から考察する ルーヴル美術館蔵『モナ・リザ』の非の打ちどころのない来歴と比べますと、アイルワースの方はかなり謎に包まれています。 最初の信頼性ある記録は、なんと1913年まで下ります。英国のキュレーターであり、コレクターだったヒュー・ブレイカーが、イギリスサマーセット(ロンドンから南西250km)の邸宅で絵画を再発見しています。 その後は、次の通りです(曖昧なものは削除しています): 1914-1918  第一次世界大戦の戦禍を逃れて、ボストン美術館で保管される 1936年…

絵はライン(線)まで観よう

以前、色について少し触れたことがありますが、今回は「線」に注目いたします。 絵画の構成要素はおおまかに、色・形・線・スペース・テクスチャーです。人間の知覚の特徴から、色に最も気がつきやすいです。 しかし、絵を前にして、線も意識して観ていただけるとその美しさに感動していただけるでしょうし、絵に対する観察力も分析力もレベルアップします。 絵は線から始まる ブロンボス洞窟で発見された世界最古の線画、約7万7千年前、南アフリカ Photo: theguardian.com 当たり前のことのようですが、絵は、線描から始まっています。 今から7万7千年前の線刻された黄土の破片が、南アフリカで発見されています。現存する最も古い絵画よりも、2万年以上も時代が遡ります。 上の画像では、線が抽象的なパターンを作っています。何かのシンボルでしょうが、私たちの祖先がこの頃から抽象的思考をしていたことは大変興味深いです。 そして線は形を作る 現存する最古の絵画、約51200年前、リアン・カランプアン、スラウェシ島、インドネシア Photo: Griffith University 線が形を作った現存する最古の例が、約51200年前の野生の豚と3人の人間の姿です。インドネシア、スラウェシ島、リアン・カランプアンの洞窟で発見されています。 線は、輪郭を描いていますが、同時に形を作る輪郭線の中は単純に塗りつぶすのではなく、線で埋めています(ハッチング)。輪郭線には、太く濃く描いている個所があり、線による影(シェーディング)を意識した可能性もあるかもしれません。 私たちの祖先の絵の創造性は、当時からかなり発達していたことがわかります。 雄弁な線 優秀な芸術家の線は、2つの側面から雄弁です。ひとつは、表現力の面からです。さまざま感情・ムード・ダイナミックさ・リズム・静寂さなどを伝える線になります。 もうひとつは、技術的な側面で、線を描く筆遣いが巧みで、美しい造形美に感服させられる線描です。有名なアーティストだからといって、すべてがこの技量を持ち合わせているわけではありません。 線のすごい表現力 線の表現力が印象的な絵画といいますと、どんな絵が頭に浮かぶでしょうか。 線描の天才の中でもトップクラスと言えば、葛飾北斎(1760-1849)です。 もともと技術的にも筆遣いの達人ですが、晩年の『富嶽三十六景』では線の表現力を爆発させています。線の表現力が卓越しているということは、すなはち形も素晴らしく、また構図の組み立ての秀逸さにもつながっていきます。 葛飾北斎、『富嶽三十六景ー神奈川沖浪裏』、1831-34、25.7 cm × 37.9 cm、多色刷木版画、Photo:Wikipedia 見慣れている画像ですが、線に注目してみますといかがでしょうか。その天才ぶりに愕然とするのではないでしょうか。印象派の画家たちが敬愛したのもまったく不思議ではないです。 迫真的なカーブ・鳥の足のような波頭・波の質感、奥行・飲み込まれそうな船を描く線の妙技によって、富士山をも凌駕しそうな波の動きやダイナミックさが遺憾なく発揮されています。 この版画では、美しいプルシアンブルー(ベロ藍)に注目しやすいですが、じっくりご覧いただけるとわかるように色は線のアクセントにすぎません。 北斎についてご興味がある方は、「日本人としての教養―なぜ北斎はすごいのか?」でも書いております。 線の表現力が突出した作品を、もう一点挙げておきましょう。…

『モナ・リザ』の風景画

風景画の場所を特定したい人々 今回の場所は正しいのか? レオナルド・ダ・ヴィンチ、『モナ・リザ』、1503年より制作開始、77 cm × 53 cm、油彩、パネル(ポプラ材)、ルーブル美術館、パリ 2024年5月、地質学者・美術史学者アン・ピッツォルッソが、『モナ・リザ』の背景の場所を特定したことを発表しました。 彼女は、イタリア北部ロンバルディア州、レッコであると言います。その理由として、レッコに存在する2つの湖コモ湖とガルラーテ湖沿岸の地形・アッツォーネ・ヴィスコンティ橋(14世紀)・山々の連なり・石灰岩の地質を上げています。 コモ湖と『モナ・リザ』向かって左奥の水域の比較は、次のようになります。 コモ湖沿岸と『モナ・リザ』向かって左奥の水域の比較 そして、次がアッツォーネ・ヴィスコンティ橋と右のアーチ型の橋を比べています。 14世紀に作られたアッツォーネ・ヴスコンティ橋と『モナ・リザ』向かって右のアーチ型の橋の比較 ピッツォルッソは、特にレッコの石灰岩とダ・ヴィンチが使った灰白色との合致を強調しています。というのも、ヨーロッパでアーチ型の橋は珍しくないですし、絵では湖のスケールが分からないので、なかなかその形状やサイズを比較するのは難しいからでしょう。 ただし、ダ・ヴィンチが使った灰白色は、彼の他の絵でも山並みを描いたりするために使用されているので、『モナ・リザ』の岩がすなはちレッコの石灰岩と見るのはかなり勇み足な印象です。 加えて、レッコと関連づけられたのは今回が初めてではありません。 2016年にレッコ出身の研究者によって、『モナ・リザ』の背景はレッコのコモ湖とガルラーテ湖付近の4つの風景を組み合わせたものである見解が発表されています。残念ながら、地元で取り上げられただけでグローバルニュースにはなりませんでした。 これまでの特定場所 実はこれまでも、『モナ・リザ』の背景を特定しようとする試みは繰り返されてきました。 2023年には、イタリア歴史学者シルヴァーノ・ヴィンチェッティが、向かって右側の橋を、トスカーナ州アレッツオ県ラテリーナにあったロミート・ディ・ラテリーナ橋(現在、ひとつのアーチを除いて崩壊)であると特定しています。ラテリーナの地質学的な相似性も指摘しています。 ラテリーナの岩柱と『モナ・リザ』の山並みの比較は、下記の通りです。確かに似ていますね。 ラテリーナの岩柱と『モナ・リザ』向かって左の山並みとの比較 写真:guardian.com さらに遡って、2011年には、イタリア美術史学者カーラ・グローリは、『モナ・リザ』の向かって左の曲がりくねった道と橋は、イタリア北部エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県のボッビオであると特定していました。 他にもさまざまな場所として特定されていますが、確かに似ているものの、どの案も確証には至りそうもないのが特徴です。 世界一有名な絵画の背景が特定できれば、研究者としても名声につながりますし、その場所が観光地となるのは疑いがないので商業的な目論見も特定する試みを後押ししているのかもしれません。 ダ・ヴィンチの風景画 一方、美術史から展望すると、ダ・ヴィンチの風景画の場所を特定する試みはあまり意味がないです。 というのも、ダ・ヴィンチは、背景の風景画として、実在の風景そのものを写生することはありませんでした。ダ・ヴィンチが例外なのではなく、当時の他の画家もそうでした。 ダ・ヴィンチは、「人物の背景ではない風景画」も描いていますが、この『アルノ谷の風景』も彼が子供時代に育った場所の写生ではなく、彼のイマージネーションとの再構成と言われています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『アルノ谷の風景』、1473, インク、ペン、190 х 285…

『岩窟の聖母』の謎がメチャメチャ楽しい

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、何かと謎に満ちています。 その中でも、特に謎が深いのが『岩窟の聖母』です。なぜでしょうか? その主な理由は、 ■ほぼ同じ構図の2つのバージョンが、ルーブル美術館とナショナルギャラリー、ロンドンに存在すること ■制作過程において、ダ・ヴィンチと絵画依頼者間に報酬についての問題が発生し、それに関する法的書類が絵画の理解(特に制作年度)をより複雑にすること まだまだ分からないことも多いのですが、ここでは最近の新発見を含めながら、『岩窟の聖母』の全体観をつかんでおきたいと思います。ではまず、2つのバージョンを観ましょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1486年頃、油彩、キャンバス(パネルから改変)、199 cm × 122 cm 、ルーブル美術館、パリ レオナルド・ダ・ヴィンチ、『岩窟の聖母』、1483〜1499, 1506〜1508年頃、油彩、パネル、189.5 cm × 120 cm 、ナショナルギャラリー、ロンドン 制作背景 制作依頼者 1483年4月、ダ・ヴィンチと、ミラノで活躍していた2人の画家エヴァンジェリスタとジョバンニ・アンブロージオ・プレディス兄弟は、「彫刻に金箔と彩色を施し、3点の絵画を提供する」という契約書にサインします。 それは、ミラノのポルタ・ヴェルチェッリーナにあったサン・フランシスコ・グランデ教会の礼拝堂を拠点としていた宗教グループ「無原罪の御宿り信者会」による祭壇のための依頼でした。この祭壇の木彫(丸彫り、レリーフ)は、すでに1482年に彫刻家ジェコモ・デル・マイノが710リラの報酬で完成させていました。 ダ・ヴィンチらがサインした契約書によると、報酬は材料費込みで800リラ、完成期限は1484年12月8日(無原罪の御宿り祝典の日)となっていました。また契約書には仕様書も添付されており、金箔の質・色の特定や・聖母とともに描かれる人物などが詳細に記されていました。 3人の芸術家への報酬、しかも金箔の調達などを考えると、800リラと言う報酬は、彫刻家ジェコモ・デル・マイノひとりの報酬710リラに比べてかなり低いです。 ところで依頼された3点のうち、祭壇の中央『岩窟の聖母』の左右に設置された絵画2点も現在、ナショナルギャラリー、ロンドンに所蔵されています。 フランシスコ・ナポィターノ?(ダ・ヴィンチの弟子)、『緑をまとったヴァイオリンを持つ天使』、1490〜1499、油彩、パネル(ポプラ)、117.2 cm X 60.8 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン ジョバンニ・アンブロージオ・プレディス、『赤をまとう竪琴を持つ天使』、1495 〜 1499 年頃、油彩、パネル、118.8 cm X 61 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン…

3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』を公開しました

ダ・ヴィンチの生涯はつかみにくい フランシスコ・メルツィ、『レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像』、1515-1517年頃、 27.5 X 19cm、赤チョーク、紙、イギリス王室コレクション いまさらですが、レオナルド・ダ・ヴィンチは世界的に超有名です。では、お聞きいたします。 『モナ・リザ』以外に、どんなアートを制作していたでしょうか? 彼の愛読書は何だったでしょうか? 彼はどのような容貌で、どんな服を着ていたでしょうか? 彼が聞いていたのは、どんな音楽だったでしょうか? 意外にも、これらの質問にサラッと答えられる方は少ないのではないでしょうか。 なぜって、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯って結構分かりにくいのです。謎に包まれていますし、解説書はものすごい分厚かったり、彼の人生のほんの断片だったりして、なかなか俯瞰しにくいのですね。それにアップデートされていない情報が、ネットや出版物にはメチャメチャ多いです。 そこで! このたびダヴィンチ研究所では、最高にユーザーフレンドリーな3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』を公開いたしました。インターネット環境があれば簡単にアクセスでき、特別なアプリや機器も不要です。 「ダ・ヴィンチの5つの部屋」よりフィレンツェの部屋(1500-1508年頃) ダ・ヴィンチの人生を5つの時期に分けて、その時期の彼の部屋を訪れたかのような臨場感で全絵画画作品・愛読書・人物像などを紹介しています。再構築した若き日の容姿もご覧になれます。ついでに、ルネッサンスの流麗な音楽にも癒されてください。 部屋の中にこれだけのダ・ヴィンチの情報をまとめ上げたのは、な、なんと世界初です。 ダ・ヴィンチの偉大なる「創造」と「発見」は、これら5つの部屋の中で爆発しました。彼の知覚が研ぎ澄まされた小宇宙を、おひとりで、ご家族、ご友人とご一緒にお楽しみください。 もちろん、観覧料などは一切いただいておりません。無料教育コンテンツとして配信します。 概要は動画でどうぞ。 プレスリリースは、こちらからご覧いただけます。 というわけで、本日は楽しいお知らせでした!

未完の大作『マギの礼拝』を考察する

クリスマスが近いので、キリスト生誕を主題とするダ・ヴィンチ作『マギ(あるいは東方三博士)の礼拝』を取り上げたいと思います。 『マギ(あるいは東方三博士)の礼拝』というと、ネット上で暗い画像を見かけた方が多いのではないでしょうか。実際には、2012〜2017年の長期にわたる修復保存作業のおかげで、画面は明るくなり、詳細もかなり見やすくなっています。 未完ですが、約100の人物と動物、建築物を含む大作であり、ダ・ヴィンチを知るには絶対に避けては通れない作品です。では、見てまいりましょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『マギの礼拝』、1481年頃、チャコール、水彩、インク、油彩、パネル、244 x 240 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ 作品の概要 絵の内容 イエスの生誕にあたり、マギがユダヤのベツレヘムに礼拝に訪れた際の光景(マタイ福音書2:1-20)を描いています。聖母マリアと幼児キリスト、そのふたりを囲む3人のマギを中心としたピラミッド型の構図となっています。 マギとは一般的に、東方から来訪した「賢人」(賢者)あるいは「王」と訳されますが、その正体は明確ではありません。日本語では「博士」と訳される場合もありますが、博士のイメージとは異なります。 マタイ福音書によると、マギは東方で、ユダヤの王で、神の子として降誕するキリストの新星を発見し、その星を崇拝の目的で追ってきたところ、ベツレヘムへ導かれたと言います。そして、彼らは、聖母マリアと幼児キリストを見るやいなや、ひざまずいて礼拝します。そして贈物として、金・乳香・没薬(ミルラとも呼ばれる死体の保存に用いた香料)を差し出します。 絵画では、3人のマギを異なる年齢(青年・中年・老年)、あるいは文化的特徴を持った衣服で描き分けることがよくあります。ダ・ヴィンチ作『マギの礼拝』では、ふたりの老年、ひとりの中年として描かれています。 描き分けの例を確認しておきましょう。アルブレヒト・デューラー作『マギの礼拝』を見ると、まさに老年、壮年、青年の描写で、しかもそれぞれのエキゾチックな衣服が印象的です。 アルブレヒト・デューラー、『マギの礼拝』、1504、100 × 114 cm、油彩、パネル、ウフィツィ美術館、フィレンツェ 背景 ダ・ヴィンチ作『マギの礼拝』は、フィレンツェ郊外にあるサン・ドナート・イン・スコペート修道院の中央祭壇画として依頼された作品です。依頼主は、聖アウグスチノ修道会の修道士たちでした。 その時の契約書(1481年7月)の一部が残されています。その記述を見ると、ダ・ヴィンチがすでに開始していた『マギの礼拝』制作について、かなり不利な支払い条件が書かれています。 最長で30か月以内に完成すること、報酬300フィオリーニ(1枚約3.5グラムの金貨)分は現金ではなく、土地で支払われること、その土地を3年後に買い上げ、その半分をサルヴェストロ・デ・ジョヴァンニの娘の持参金として銀行に入金すること、顔料や金は自分で調達すること、完成しなかった場合は、作品も土地も放棄することが記載されています。 かなり上から目線な契約ですね。この契約は、レオナルドの父であり、公証人だったセル・ピエーロとサン・ドナート・イン・スコペート修道院とのビジネス関係があったことにより仲介されており、それがかえって事態を複雑化させたようです。 いずれにせよ、1482年、ダ・ヴィンチは、『マギの礼拝』を未完成のまま、フィレンツェを後にし、ミラノへと旅立つことになります。なぜ未完で終わらせたかの理由については諸説ありますが、真意のほどは明らかではありません。 そして、サン・ドナート・イン・スコペート修道院の中央祭壇画は、1496年に画家フィリッピーノ・リッピによって完成します。次に挙げる絵になります。 フィリッピーノ・リッピ、『マギの礼拝』、1496、油彩、パネル、258 cm X 243 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ…

ダ・ヴィンチが最晩年まで攻めた証『聖アンナと聖母子』

ダ・ヴィンチの最晩年の作品のひとつをご紹介しましょう。 クリエーターの晩年作というのは、強い遺志が込められているようで特別なものです。もしかすると「ダ・ヴィンチが最後まで手を入れていたのは本作品だったのかも」と考えるだけでドキドキします。 最晩年作のひとつには他に『洗礼者ヨハネ』がありますが、作風がまったく異なる点が興味深いのと同時に、ミステリアスでもあります。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『聖アンナと聖母子』、1507〜1508年頃から制作開始、油彩、パネル(ポプラ材)、168 cm X 130 cm、ルーブル美術館、パリ ※この『聖アンナと聖母子』を含むダ・ヴィンチの絵画全作品が、「ダ・ヴィンチの5つの部屋」でご覧いただけます。ルネッサンスの臨場感をお楽しみください! 作品の概要 ビジュアル分析 岩山の上に親子3世代―聖アンナ、聖母マリア、幼児キリスト―が集まっている光景を描いています。 幼児キリストは、子羊(生贄のアイコン)とたわむれ、抱こうとしてしています。聖母は、聖アンナの膝に座りながら、幼児キリストを諭すような視線を送り、子羊から引き離そうとしているように見えます。聖アンナは、おそらく岩に座り、その2人を見守るように見つめています。 右上の手前の木は、三世代を描いていることと合わせて解釈すると、神という存在が永遠につながっていることを象徴する「生命の木」であることが推測できます。 背景には、空気遠近法(大気の性質を利用した色による遠近表現)を駆使した遠山が、聖母のドレスの色と呼応するかのように青く、幻想的に広がっています。 作品のバックグラウンド ■制作年代はピンポイントできない 制作年代、依頼者については明らかな証拠があるわけではありません。ただし、資料をつなぎ合わせると、ダ・ヴィンチは、この絵について1500年頃から晩年までという長い期間に渡り、熟考、制作していたことが分かります。 また、実際に制作を開始したのは、そのスタイルの特徴から、1507年頃(1499〜1502, あるいは1503年説あり)と考えられます。 ■本作品は未完成 ダ・ヴィンチは、『聖アンナと聖母子』を完成していません。メトロポリタン美術館キュレーター、カーメン・バンバックは、2012年の保存修復後に調査し、特に人物のモデリング(聖母の顔を含む)と仕上げ部分について未完成であることを指摘しています。 ■依頼者は誰か? 依頼者については、複数説あります。ひとつをご紹介しますと、ルイ12世説があります。彼が、アンナ・ド・ブルターニュ(シャルル8世の元妃)を妃として迎え、娘クロードの誕生(1499年10月)が依頼のきっかけとなったと考えられます。聖アンナと妃が同名であることも辻褄が合います。 しかし、何らかの原因により、この作品は依頼者の手元には届けられませんでした。というのも、1517年にはまだ、ダ・ヴィンチの手元にあったことが判明しているからです。そして翌年1518年に、フランソワ1世が購入し、ダ・ヴィンチの弟子サライに多額の金額が支払われています。 しかしながらこの説にも疑義が唱えられていますし、その昔、有力だったフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツイアータ聖堂からの委嘱説はおおかた否定されています。決定的情報は、今のところまだ出てきていません。 ■ナショナルギャラリー、ロンドンにある下絵との関係 ナショナルギャラリー、ロンドンには、『聖アンナと聖母子』制作の準備段階で描かれた下絵が存在します。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』、1500〜1508年頃、141.5 x…

ダ・ヴィンチ戦慄のデビュー作『受胎告知』

ずっと知覚の話になっていましたので、今回は、久しぶりに ダ・ヴィンチ の絵画に触れましょう。 そもそも ダ・ヴィンチ の絵画を含めて宗教絵画は、知覚力を鍛えるのは理想的なのです。その辺のお話は、いつかまたゆっくりしたいと思います。 さて、現存するダ・ヴィンチ作品の中で、最も古い絵画が『受胎告知』です。 『イエスの洗礼』や『大天使ラファエロとトビアス』もありますが、ダ・ヴィンチはそれらの制作に部分的にしか関わっていません。 『受胎告知』の方は、ほとんどの部分以上をダ・ヴィンチが制作した可能性が高いです。 何が私たちをときめかせるかと言えば、20代のダ・ヴィンチが並々ならぬ情熱と、成熟した時にいったいどんな並外れた絵を描くのだろうという期待感です。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『受胎告知』、1472〜1473年頃、98 cm X 217 cm、 ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 作品の概要 内容 「受胎告知」とは、キリスト教絵画の中で最も多く描かれるトピックのひとつです。 新約聖書ルカによる福音書 1:26-39 を絵画化したものです。神の使命を受けた大天使ガブリエルが、ガリラヤの町ナザレの処女マリアを訪れ、ジーザスという名前の息子を受胎したことを知らせるその瞬間です。 大天使ガブリエルは左手に白のユリ(純潔のイコノグラフィー)を持ち、右手は祝福のサイン(人指し指と中指を伸ばし、他の指は閉じる)を示しながら跪いています。その場所である囲まれた庭には、草花が絨毯のように咲き乱れています。囲まれた庭(Hortus conclusus)は、マリアの処女性のシンボルでもあります。 一方、マリアは読書中で、大理石の装飾的な台座がついた聖書台に置かれた聖書のページを押さえながら顔を上げ、この訪問に対して、左手で驚きを表現しています。 家の外には、幾何学的な木々が並び、その向こうには、岡、船が見える港町、遥か彼方には高い山々がかすかに見えます。その港町の風景の中心は、ちょうどこの絵の消失点としての役割を果たしています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『受胎告知』後景部分、 ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 背景 この『受胎告知』は、1867年にフィレンツェのサン ・ バルトロメオ ・ モンテオリヴェート教会から、ウフィツィ美術館に持ち込まれましたが、それ以上の来歴については詳しく分かっていません。 作者は、ダ・ヴィンチではなく、彼の恩師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ、ドメニコ・ギルランダイオと疑問視されることがありました。…

ドキュメンタリー映画『ロスト・レオナルド』

レオナルド・ダ・ヴィンチあるいは彼と工房による作品、『サルバドール・ムンディ』、1500年頃、45.4cm × 65.6cm、木製パネル(くるみ材)サウジアラビア王太子ムハンマド・ビン・サルマーン所有、所在不明 『サルバドール・ムンディ』の謎に包まれた軌跡  今年6月、米国トライベッカ映画祭にてプレミアム上映されたドキュメンタリ―映画『ロスト ・ レオナルド(失われたレオナルド)』が、8月13日から米国で一般公開されています。 この映画の主役は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作かどうかの真贋がわからないまま、所在さえも不明となっている絵画『サルバドール・ムンディ』。その絵の発見から、現在に至るまでの紆余曲折したミステリアスなストーリーを追っています。「ダ・ヴィンチ作だとしたら……」というワクワク感と、本物だった場合の膨大な金銭的価値によって翻弄された一枚の絵画の軌跡とも言えますね。 (映画についてではなく、絵画自体の軌跡の方は、別エントリーに詳しく書きましたのでそちらをご覧ください) https://www.youtube.com/watch?v=j0lXLGgQjYY デンマークの監督による美しいアートフィルム この映画ですが、日本でも公開されたらいいなと期待しております。と言うのも、ものすごく良くできたドキュメンタリーだからです。 デンマーク人の監督アンドレアス・コーフォード(Andreas Koefoed)が、初めて製作したアートフィルムなのですが、信じられないくらい優れた仕事をしています。 まず、色・光・カメラアングルが、非常に美しい! それと、 『サルバドール・ムンディ』 の真贋に直接的に関わった人々――アートディーラー、保存修復士、キュレーター、オークションでのバイヤーとセラー、アートジャーナリスト、ダ・ヴィンチ研究者など――のインタビューが抜けなく集められています。 永遠に残るフィルムですから、これだけの人々にインタビューで「真贋」を証言してもらうには、相当の説得力が必要だったでしょうね。将来、科学的手法で真贋にケリがついた時、専門家である自分が偉そうに反対のことを主張していたら、恥ずかしい気持ちが否めないでしょうから。 インタビューのカメラワークも工夫されていて、人が中央に座って真正面から撮影しています。証言台に立たされているようで、特徴的です。これ、実はコーフォード監督のねらいで、 『サルバドール・ムンディ』 の真正面向きの構図と重ねていたことを後で知りました。 『ロスト・レオナルド』 の監督、アンドレアス・コーフォード © Erika Svensson/Sony Pictures Classics 『サルバドール・ムンディ』は今どこに? 『サルバドール・ムンディ』…