日本人としての教養―なぜ北斎はすごいのか?

遂に、最高レベルの価値に!

2023年3月16日と21日のクリスティーズのオークションで、葛飾北斎作『富嶽三十六景ー神奈川沖浪裏』が、相次いで159万ドル(約2億7百万円)、276万ドル(約3億6千万円)で落札されました。

予想落札額は、前者が15-20万ドル、後者が50-70万ドルだったので、5〜10倍という驚くべき競り上がり方でこれまでの落札価格を更新したわけです。


葛飾北斎『富嶽三十六景―神奈川沖浪裏』、1830年頃、木版画、25.7 X 37.9 cm、メトロポリタン美術館、ニューヨーク

最高額をつけた作品は、現存する中でその刷りの良さでトップ20のひとつとされています。クリスティーズサイトで比較していただけると、その美しさを確認していただけるでしょう。

ところで版画の小作品(浮世絵大判 約26X38cm)でこの高値をたたき出せるのは、ネーデルランドの巨匠レンブラント・ファン・レインくらいしかいないです。これらこそ、世界トップ2の版画と言っていいでしょう。


レンブラント・ファン・レイン『3本の十字架』、1653年、ドライポイント、38.7cm、アムステルダム国立美術館

日本が誇るグローバルアイコン

『富嶽三十六景ー神奈川沖波裏』は、世界的に最も有名な日本美術作品です。

その背景には長い歴史がありますが、いまや日本→北斎、Mount Fuji→北斎の富士山、波→北斎の波とつながるほどに強力なグローバルアイコンです。

すでにお話したオークションの高値更新も、このグローバルアイコンとしての価値がなければ成し遂げられなかったことは間違いありません。

このカテゴリーの絵画と言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』やジェームス・ウィッスラー『灰色と黒のアレンジメント-母の肖像』があります。そう考えると、版画の小品とは言え、今回の落札額は、まだまだ安価すぎるとさえ思えます。


ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、『灰色と黒のアレンジメント-母の肖像』、1871、油彩、144.3 X 162.4 cm、オルセー美術館 

世界トップレベルのドローイング力

秀でたアーティストの共通点、それは紛れもなく線描する力です。

確実に、無駄なくとらえ、流麗に描写する技術と言えます。

最近、大英博物館が購入した『万物絵本大全図』の挿絵で確認してみると、猫のしなやかに歪曲した体の輪郭が寸分の狂いもなく軽快なリズムで描かれています。


葛飾北斎、『芙蓉の下の猫2匹』、『万物絵本大全図』挿絵のための下絵、1829、インク、紙、大英博物館

この北斎のドローイング力に匹敵する画家と言えば、そのひとりとして頭に浮かぶのが、ダ・ヴィンチです。早速、比較してみましょう。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、『猫、ライオン、ドラゴン』、1517-18頃、27 X 21cm, チョーク、インク、ローヤルコレクション

ダ・ヴィンチ作品は、チョークとウォッシュを使っているのでより繊細に見えますが、インクの線描はどちらも引けを取らず正確です。違いを指摘するなら、ダ・ヴィンチは深い解剖学的知識があったため、より骨格や筋肉を意識した精密なスタイルを好んでいます。


印象派の影の立役者

北斎なしに、印象派は生まれていなかったと言われることがあります。

決して誇張ではなく、1867年4月の万国博覧会日本パビリオンで北斎を含めた浮世絵師たちが紹介されたことは、その5年後に旗揚げされた印象派を熟成させたと言えるほどに衝撃的なインパクトがありました。

その中でも、最も多大な影響を与えたのは、やはり北斎なのです。

大胆かつ優雅な色調(平面的な純色の並列や深い空間性を表現した藍色など)・線で幾何学的に描いた遠近法・シンメトリーの欠如・余白など、それまで西洋画家たちが親しんできた理論や画法をことごとく覆す要素を持ち合わせていたのです。


葛飾北斎『富嶽三十六景―甲州石班澤』、1830年頃、木版画、26 x 38.4 cm、メトロポリタン美術館、ニューヨーク

当時の西洋人の眼を、そうしたリアルではない装飾性で魅了させる一方、主体を客観的に緻密に描く線描とのギャップで釘づけにしたのです。次の北斎漫画では、正確な線で奇抜な動きが描き分けられる新鮮さをご確認いただけます。


葛飾北斎『北斎漫画三編』、1815、紙本、大英博物館

エドガー・ドガの作品に見られる奇抜な動きをリアルに描く線と装飾性の融合は、北斎からのコンセプチュアルな影響があったと言えるでしょう。空間構成も、北斎の名所絵を思わせます。


エドガー・ドガ『バレエ教室』、1870年頃、19 X 27 cm、メトロポリタン美術館、ニューヨーク

揃いもので壮大なストーリーを編む

北斎はその90年の生涯で、ざっくり30000点の作品を残したと言われています。その絵画や版画で扱ったジャンルは、天井画・役者絵・名所絵・秘画・挿絵などまで多岐にわたります。

その中で彼が果たしたイノベーションが、揃いもので壮大なストーリーを作ったことです。有名な例はもちろん、『富嶽三十六景』『千絵の海』などの名所絵です。

独立した絵のセットでストーリーを作ることは、もちろん北斎以前にも行われてきました。二連、三連作の祭壇画や浮世絵でも存在します。また仏画では、それ以上の数の掛け軸でセットを構成することもあります。

しかしながら、『富嶽三十六景』のように36(実際は追加分を含めて46)もの独立した版画で、壮大なストーリーを作ったのは世界初です。これは版元の販売戦略とも言えますが、北斎の並々ならぬ創作エナジーがなければ到底成し遂げられなかったことです。

この影響は、クロード・モネをはじめ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ロイ・リキテンシュタイン、アンディ・ウォーホールにも継承され、それぞれの独自のストーリーが編まれていきます。

クロード・モネのさまざまなシリーズ(例えば『積わら』や『水連』)はおなじみだと思いますので、ロイ・リキテンシュタインの例(シリーズのうちの一部)で見ておきましょう。


ロイ・リキテンシュタイン『ルーアン大聖堂セットV』、1969、161.6 × 360.4 cm、油彩、マグナ、サンフランシスコ近代美術館

まとめ

北斎が超一流アーティストであることは知っていても、その理由を意外にご存じなかった方も多いのではないでしょうか。

その主な理由は、グローバルアイコンとしての地位・卓越したドローイング力・印象派への多大な寄与・美術史的イノベーションということになります。

近年、海外の若手投資家も、北斎作品に関心を持っていると聞きます。この北斎人気の上昇トレンドの中で、「北斎がすごい理由」は日本人として知っておくべき教養と言えるのではないでしょうか

もしかして、北斎の浮世絵が自宅にある方もいらっしゃるかもしれません。もはや家宝であるばかりか、日本の宝と言ってもよいかと。版画は、光にあたるとみるみる劣化します。私も浮世絵コレクションで有名なボストン美術館勤務時代、他のジャンルよりも格段気をつかいました。くれぐれも、大切に保存なさってください。