ロシアによるウクライナ侵攻は、相変わらず予断を許さない状況が続いています。
現時点(2022.3.3)ですが、首都キエフ近くをロシア軍が約65キロに渡って車列を作り、いつでもキーウを包囲できる状態が報道されています。また、米国国防総省は、5日以内に陥落すると予想しています。
キーウと言えば、その中心に世界遺産「聖ソフィア大聖堂と関連する修道院」があります。
(郊外にあるキーウ・ペチェールシク大修道院も一緒に世界遺産として認定されています)
プーチン大統領は、ロシア正教信者で、彼がこれまでに自ら語った信仰心から推察すると、あえて大聖堂を標的にすることはないと信じたいです。しかし、戦闘が激化すれば被害があることが危ぶまれます。
- 聖ソフィア大聖堂
この大聖堂は、約20年の歳月をかけて、1037年に完成しました。キーウ大公国のウラジミール1世(1015年死没)が計画し、その息子ヤロスラフ賢公(978-1054)によって施工されました。
5世紀半ばの西ローマ帝国消滅によって、キリスト教の中心は、東ローマ帝国の首都ビザンティウム(コンスタンティノープル)に移り、その東方正教会がキリスト教とその美術にとっての強力な支援者を継ぎました。
ウラジミール1世が、そうした東方正教を国教として受け入れ、彼自身も洗礼したのは988年のことです。その後、ビザンティウムの建築家や芸術家を雇い入れ、キリスト正教会大聖堂であったアヤ・ソフィア(現在はイスラム教ムスク)のような建設を目指したのです。
しかし、鋭い方はお気づきになったのではないでしょうか。
ビザンティン建築の傑作であるアヤ・ソフィアと比較すると、様式が異なるじゃないかと。実際に次の写真と比較していただくとその大きな違いを確認していただけます。
その理由は、17〜18世紀に聖ソフィア大聖堂は大増改築されておりまして、特に上部の部分が「ウクライナ・バロック」と呼ばれる独自なスタイルになったからです。
- 聖ソフィア大聖堂のアート
建物の時代は下りますが、内部は、11世紀ビザンティンスタイルのフレスコとモザイク画がそのまま保存されています。
金地に、聖者たちのイコンが所狭しと埋め尽くされています。聖者たちの数は、800以上と言われていますが、これだけ多く描かれている例は他には存在しません。
中央後陣に最も大きく描かれているのは、聖母マリアです。
写真だと分かりにくいのですが、これモザイクです。鮮やかな金とラピスラズリ色が光の反射によって美しく輝くことを想像しながらご覧ください。
ここにビザンティン美術の典型的な特徴を確認できます。
■身体を自然に描写するのではなく、フラットに様式化されてシンボルのように描かれる。
■三次元性は、消極的に線と色とポーズによって作られる。
■私たちが馴染んでいる遠近法をくつがえす逆遠近法である。
(観る者に向かって視野が広くなったり、遠景にあるものの大きさが小さくならなかったりします)
ところで、よくある勘違いとして、ビザンティン美術の典型的な特徴が、聖像破壊運動 (イコノクラスム726-843年頃)によって育まれたと理解している方がいらっしゃいます。確かに発展は邪魔されましたが、特徴への影響はと言うと軽微なものに留まっています。
この『イエス・キリスト』は、大聖堂をひとつの宇宙と見立てて、その全能なる統治者として描かれています。右手の十字架のサインと左手の聖書は、そのためのイコノグラフィーとして一緒に描かれることがよくあります。
多数の聖者たちと一緒に描かれていることから、信者たちのために金色の彼岸の世界を作る意図が感じられます。
上の画像では、モザイクであることが判りやすいですね。人の表情を観察してみると、モザイクという制限された表現力で、それぞれの個性を出すために相当な工夫が見られます。また、流麗に流れる線にも高い技術力を要します。
さて、あまり取り上げられることにない聖ソフィア大聖堂をご紹介してみました。
この大聖堂は、人間の叡智の結晶であり、古代ローマ、トルコ、ギリシャ、ペルシャ、そしてロシア文化の融合の形でもあります。
この宝石箱のような大聖堂を人間自らの手で破壊することなく、永遠に賛美するためにも一秒でも早く停戦協議が進捗することを祈るばかりです。