日の出が見られる絵画5選

2025年の初日の出はご覧になりましたでしょうか。東京では、午前6時51分の予想でした。 普段、ビルの谷間で日の出を愛でるチャンスが激減しているため、改めて眺めると、神々しさに心が洗われる気分になります。日の出の光のまぶしい透明感と周りの空気感にはとても元気づけられます。 というわけで、2025年の幕開けにふさわしく、日の出が印象的な絵画5作品を共有してまいります。 クロード・モネ『印象―日の出』 クロード・モネ、『印象―日の出』、1872、油彩、キャンバス、48 cm × 63 cm、モンマッタン美術館 美術史では最も有名な「日の出」で、まさにレジェンドですね。 クロード・モネ(1840-1926)が、1874年4月に開催されて、後に第1回印象派展と呼ばれるようになった展覧会に出品した作品のひとつです。この年はまた、印象派誕生の年とされています。この絵のタイトルに由来して、印象派と命名されました。 モネは、彼が幼少期を過ごした北フランスの港町ル・アーヴルを訪れ、ホテルの窓からの眺めを描いています。近年、天文学者・物理学者ドナルド・オルセンによって、この作品が描かれた日は1872年11月13日7:35AM頃(日の出から20-30分後)と特定されました。 太陽そのものは普通に丸く描かれています。しかし、その光が当たった水面は、色を筆触分割(色を混ぜずにキャンバス上で隣り合わせて配色)で彩色されていて、私たちの知覚を通してよりダイナミックな光の作用を感じられるようになっています。 印象派展では酷評されましたが、その理由がわかりやすい作品です。水面の暗いブルーグレーの不規則な筆致が浮き上がっています。もしも伝統的な描法に慣れ親しんでいたら、かなり粗雑で衝撃的です。 フィンセント・ファン・ゴッホ『朝日が昇る麦畑』 フィンセント・ファン・ゴッホ、『朝日が昇る麦畑』、1889、 72 cm X 92 cm、油彩、キャンバス、クレラー・ミュラー美術館、オランダ ファン・ゴッホ(1853-90)は、1885〜1890年に30作品以上を含む「麦畑シリーズ」を描いていますが、その中の1作品となります。 1888年12月から耳を切った事件で入院していたアルル市立病院から、翌年サン=レミの療養所に自主的に1889年5月に入所してまもなくの作品です。一か月後に、皆さんがよくご存じの『星月夜』が描かれています。最も生産的な時期でした。 ファン・ゴッホが、「麦畑シリーズ」に力を入れたのは、自然が彼の創造の源であり、神を感じる場であったことももちろんなのですが、それ以上にシンプルな麦畑を題材にして色の実験をしたかったことも確かです。「麦畑シリーズ」を並べてみると、色が活き活きしていて彼がいかに創造性を楽しんでいたことが伝わってきます。 クロード・モネの『印象―日の出』との筆致の違いにもぜひ注目してみてください。 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー『ノーハム城、日の出』 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、『ノーハム城、日の出』、1845年頃、油彩、キャンバス、90.8 cm × 121.9 cm、テート・ブリテン ノーハム城は、イギリスとスコットランドの境界に位置し、トィード川を望んで建つ廃墟です。この場所は、ウィリアム・ターナー(1775-1851)にとって、生涯に渡って6バージョンを制作するほど特別でした。特に日の出との組み合わせで、その光の描き方を探っています。 ターナーは、ロマン主義の画家とされますが、本作品のように晩年期になるとまさにイギリスの印象派とも言えます。筆致はフランスの印象派とは異なりますが、つかのまの光や空気感をとらえているのは、まさにクロード・モネと共通するコンセプトです。ノーハム城がほとんど見えないのは、モネよりもさらに近代的スタイルにも見えます。 クロード・モネは、1870-71年にイギリスに滞在し、ターナーの絵に触れていたことは明らかになっているのでなんらかの影響を与えていることは確かでしょう。 アルバート・ビアスタット『マッターホルンの日の出』 アルバート・ビアスタット、『マッターホルンの日の出』、1875年以降、148.6 x…

心揺さぶられる『ピエタ像』のお話

2019年4月15日のノートルダム大聖堂大火災から5年半が経過し、クリスマス目前の2024年12月7日のリオープニングセレモニーとともに公開が再開されました!アート作品には甚大な損害が及ばなかったのは、不幸中の幸いでした。 そのノートルダム大聖堂にちなんで、またクリスマスにぴったりなトピックということで、心揺さぶられる『ピエタ』作品についてお届けしたいと思います。 夜のノートルダム大聖堂西側ファサード Photo:Wikipedia 「ピエタ像(キリスト降架)」とは? 「ピエタ像」は、日本語で「キリスト降架」と訳されていることが多いのですが、実際「ピエタ」の直訳は、「哀れみ、慈悲」です。英語の"pity"ということになります。 「ピエタ」は、聖母マリアが磔刑の後に十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱きかかえるシーンで、キリスト教美術が頻繁に描写する題材となります。聖母マリアとキリストだけでなく、天使・聖人ヨハネ・マグダラのマリア・依頼者が加えられることもあります。 12世紀後半のドイツが起源でヨーロッパ諸国(イタリア・フランス・オーストリア・オランダ・イギリス・ロシアなど)に広がり、20世紀まで作品が作られ、その人類のために犠牲となった息子キリストと母のシーンに心を揺さぶられてきました。彫刻を眼にしやすいかもしれませんが、絵画もかなりの数で描かれています。 「ピエタ」3選 ニコラ・クストゥ 1723年 ニコラ・クストゥ、『ピエタ』、1723年、大理石、ノートルダム大聖堂、パリ 最初の作品は、ノートルダム大聖堂祭壇中央を飾る『ピエタ』です。5年半前の火災では、すすを浴びただけで幸運にもダメージはありませんでした。 彫刻家ニコラ・クストゥ (1658-1733) の晩年の作品です。クストゥは、彫刻家一族に生まれ、おじ、弟とともに活動することが多く、また王室とのつながりも強いことからベルサイユ宮殿庭園の彫刻も一緒に手掛けています。 悲嘆にくれた表情の聖母マリアが両手を広げて、自分を神の意志に捧げるポーズを取っています。2人の天使を伴っていますが顔を背けており、聖母マリアの嘆きに完全に焦点を置いてドラマティックに演出しているところが、まさにバロック様式の特徴を示しています。後ろのステンドグラスとの調和も美しいです。 ミケランジェロ・ブオナローティ1499年 ミケランジェロ・ブオナローティ、『ピエタ』、1498-1499年、大理石、174 cm × 195 cm、サンピエトロ寺院 Photo: Wikipedia 2作品めは、ミケランジェロが24歳の時に作った最初の『ピエタ』です。彼は生涯を通して合計3点の『ピエタ』を作っています。もう1点ありますが、真贋については両説あります。これらのうち、この1点だけが完成して、残り3点は未完です。 『ピエタ』というと、このミケランジェロ作品と同一視されることも多いくらい有名な作品です。その理由は、もう美観に尽きると思います。とにかく、大理石の塊をノミで掘り出したとは到底信じられないほど、自然でなめらかな曲線です。 そしてさまざまなテクスチャの表現が巧みです。衣紋線、聖母マリアの肌質、亡くなったキリストの肋骨や腕の血管などです。こうした丁寧な写実的な描写が、さらに感情的なドラマを盛り上げ500年以上にわたって世界一有名な『ピエタ』である理由と言えるでしょう。 ミケランジェロが唯一、署名を入れた作品でもあります。 ミケランジェロ・ブオナローティ、『ピエタ』部分、ミケランジェロのサイン Photo: Wikipedia…

ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロが出会った1504年頃のこと

以前、2024年はミケランジェロが熱いと書いていたのですが、その締めとしてロイヤル・アカデミー・オブ・アーツにて美術展「ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロ:フィレンツェ1504年頃」が開催されます(会期:2024年11月19日-2025年2月16日)。 三大巨匠にとって旋回軸のような1504年にフォーカスしてくれたのもさすがですが、彼らの傑作を同時に見せてくれるのも、出展作品が近場で調達できるヨーロッパならではの夢のような展覧会です。 ミケランジェロ29歳、レオナルド52歳、ラファエロ21歳の年に、ルネッサンス発祥の地でいったい何が起こっていたのでしょうか?さっそくその概要を見ていくことにしましょう。 ※3人の巨匠の関係性にフォーカスしています。作品解説すると長すぎてしまうため、作品自体についてはwikipediaなどでご高覧いただけますと幸いです。 フィレンツェ1504年 まずは、当時の絵画からフィレンツェを展望してみましょう。 伝フランチェスコ・ロッセリとその工房、『南西から見たフィレンツェ』、1495年頃、テンペラ、油彩、板、96X146cm, ヴィクトリア・アルバート美術館、photo: Victoria and Albert Museum 東にアウノ川、他方向は要塞に、その外は丘に囲まれている地形です。15世紀の経済的発展を物語るように建物が密集して栄えていますね。しかし意外にも、その人口は5万人前後で、ナポリやヴェニスの2分の1ほどになります。 東にアウノ川、他方向は要塞に、その外は丘に囲まれている地形です。15世紀の経済的発展を物語るように建物が密集して栄えています。しかし意外にも、その人口は5万人前後で、ナポリやヴェニスの2分の1ほどになります。 ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロのうち、いったい誰がどの教会、宮殿、邸宅プロジェクトに関わってフィレンツェを彩るかについて、本人たちはしのぎを削るような心地だっだろうと想像できます。 フィレンツェには銀行業で巨万の富を築いたメディチ家は始め、貴族や商人によって潤沢な資金があり、また共和国として個人の自由表現は尊重されていた上に、「新しいアテネ」を再建しようとするスピリットであふれていました。 そのようなルネッサンスを推進させる環境が整っていたところに、3人の天才が集結したのが1504年頃ということになります。 ミケランジェロ1504年 『ダビデ像』の完成 まずは、ミケランジェロからまいりましょう。1504年は、彼が『ダビデ像』を完成させた特別の年です。 ミケランジェロ、『ダビデ像』、1501年頃ー1504年6月8日、517 cm × 199 cm 、カララ大理石、アカデミア美術館 この『ダビデ像』を見た時、レオナルドはどう反応したでしょうか。元々、レオナルドにも制作が打診されていたのですが、若干26歳のミケランジェロに制作は託されてしまいました。この時、レオナルドには相当な無念さがあったと想像します。 その苦々しい感情が反映されたためか、『ダビデ像』の完成間近であった1504年1月25日に、その設置場所について行われた協議で、レオナルドはちょっと意地悪な提案をしています。当初予定されていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の東側の屋根づたい(高さ12m) ではなく、もっと目立たない場所―ロッジア・ディ・ランツィ(シニョリーア回廊)―に置くべきだと述べたのです。 協議の結果、『ダビデ像』は、ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ共和国の政庁舎)の入口に設置されることになりました。『ダビデ像』の今戦わんばかりに自信みなぎる若さは、フィレンツェそのもののスピリットの具現と認められたわけです。当初の宗教的なイメージではなく、フィレンツェ共和国のシンボルへと高揚したわけです。そしてミケランジェロは、以前からささやかれていた彼のニックネーム「神に愛されし者」を不動のものにします。 お互いの影響がわかる『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』 ミケランジェロ・ブオナローティ、『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ(Taddei Tondo)』、c. 1504–1505、大理石、直径106.8cm、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ蔵、Photo:…

【作品で簡単にわかる】シュルレアリスムとは何か?

パリ、ポンピドーセンターで「シュルレアリスム」が開催されています(会期:2024年9月4日-2025月1月15日)。シュルレアリスムの代表的画家――サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、ジョアン・ミロ、マックス・エルンスト、ジョルジョ・デ・キリコなど――の作品ブリュッセルから始まり、パリの後はマドリードから、フィラデルフィアへとツアーする大規模な展覧会です。 というのも、今年は、シュルレアリスム芸術運動の創始者のひとりアンドレ・ブレトン(1896-1966)が1924年10月にマニュフェストを出版してからちょうど100周年となります。 100年経ていても、彼らの斬新さな発想と作品はちっとも色褪せてなくて、むしろ私たちの凝り固まった固定観念をもみほぐすかのように刺激的です。 でもいったい「シュルレアリスム」って何でしょうか。英語読みでは、「シュールレアリズム」で、こちらの方がピンとくる方も多いでしょう。 芸術運動であり、政治的運動であり、世界的に広がったためとても複雑です。そこで、その特徴が超簡単に眼でわかるように代表的作品5点でまとめてみました。 マニュフェストは現代人に通じる アンドレ・ブレトン著『シュルレアリスムマニフェスト』、1924年10月15日 Photo: wikipedia  シュルレアリスムは、精神病を学んだ元医学生で、著述家、詩人、シュルレアリスムの創始者のひとりアンドレ・ブルトン(1896-1966)が書いたマニュフェストなしには語ることができません。 なぜならシュルレアリスムを、文字通りに超現実主義(現実を超えた現実)とだけ取りますと、私たちの理解はとても表面的なものにとどまってしまい残念すぎるのです。 アンドレ・ブルトン、1924年 ブルトンは、マニュフェストの中で明確に定義しています: 「(シュルレアリスムは)純粋な状態の心理的な自律性(オートマティズム)であり、それによって実際に機能している思考を話し言葉や書き言葉やその他の方法で表現することを提案する。思考に導かれるのであって、いかなる理性の制御は存在せず、美的概念からも道徳的懸念からも免除される」 ひと言で言えば、理性や美的概念や道徳的懸念に縛られず、個人の心を解放して知的生産性を高めることを宣言したわけです。人間の永遠のテーマなのですが、極度に制約がかかった2つの世界大戦の間で、あえて高らかに声を挙げて、多くのクリエイターたちの支持を得たのは必然と言えるでしょう。 この目標のもと、ブルトンたちに多大な影響を与えたのが、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイト(1856-1939)が創始した精神分析です。フロイトは、対話や夢判断や幼児体験などを通して、人間の無意識を引き出して精神状態をより深く理解しようとしたことはご存じかもしれません。 ブルトンたちの興味はそこに重なりました。人間の無意識が隠れた場所――現実・夢・イマジネーション(エロチックなものを含む)・子供時代――からの発見することが、彼らのクリエイティビティを最大化することであり、シュルレアリスムにとって発想の原点となったのです。 代表作で見るシュルレアリスム サルバドール・ダリは「夢」の写真を手書きした サルバドール・ダリ、『目覚める1秒前にマルハナバチがザクロの周りを飛んでいることによって引き起こされる夢』、1944, 51.00 x 41.00 cm、油彩、板、ティッセン=ボルネミッサ美術館 © Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dali…

クロード・モネが革新的な5つの理由

2024年の秋は、ちょっとしたクロード・モネブームがやってきそうな気配です。 クロード・モネのロンドンのテムズ川を中心に描いたシリーズ21作品(国会議事堂・ウォータールー橋・チャリング・クロス橋)が、今月末からコートルド美術館で公開されます。「モネとロンドン―テムズ川の風景」(会期:2024年 9月27日〜 2025年1月19日)で、パリで1904年に公開されてから120年ぶりの地元ロンドンでの一挙公開となります。 クロード・モネ、『ロンドン国会議事堂―霧の中の光』、1904、81,5 X 92,5 cm、油彩、キャンバス、オルセー美術館 Photo :wikipedia 日本でも、国立西洋美術館にて「モネ―睡蓮のとき」(2024年 10月5日〜 2025年2月11日)が開催され、「睡蓮」の国内外作品20点以上が出品される予定です。 ところで、クロード・モネはあまりにも有名なので、なかなか「モネが好き」と言いにくかったりしませんか。ニッチな画家の名を挙げた方が、クールだと感じる方もいらっしゃるようです。そうは言っても、モネってものすごい画家なのです。 そこで今回は、揺るぎない自信を持って「モネが好き」言っていただけるように、また著名な画家についての教養をさらに深めていただけるように、美術史上燦然と輝くクロード・モネの革新性について整理しておきたいと思います。 何と言っても印象派の祖 クロード・モネは、印象派の祖です。というのも、印象派の名は、モネの作品『印象・日の出』に由来しています。彼がこの作品を出品したのは、格式高いサロンから拒絶された芸術家らが作品を持ち寄った展覧会でしたが、後には第1回印象派展と呼ばれるようになり、その開催年である1874年は、印象派誕生の年とされています。 クロード・モネ、『印象、日の出』、1872年、48 × 63 cm、油彩、キャンバス、オルセー美術館、photo: wikipedia この第1回印象派展ですが、入場者数はサロンの1%にも満たずで、多くの評価もネガティブなものでした。伝統にとらわれたアカデミックな批評家たちの眼には、とらえどころのない「未完成作品」のごとく映ったようです。 しかしながら今振り返れば、この展覧会に出品していたのはなんと、オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ポール・セザンヌら、才能にあふれる画家たちの面々です。つまり、この展覧会は、時代の先駆者たちが集合したイノベーティブな活動で、クロード・モネはその旗手だったと言えます。 太陽光への比類なき興味 そうした印象派の中でもクロード・モネが突き抜けた理由は、彼の壮大なゴール設定です。それは、太陽光が織りなす束の間の変化をキャンバスに閉じ込めることでした。千変万化する自然から、完璧な一瞬を描写しようというのですから巨大な野望です。美術史上、印象派の画家以外を含めて、彼ほど日光に執着した画家は他には存在しません。 クロード・モネ、『ロンドン国会議事堂―太陽光の影響』、1903、81,3 X 92,1 cm、油彩、キャンバス、ブルックリン美術館 Photo :wikipedia モネによると、日光の影響は7分ごとに変化し、物体の色や大気も変わると述べています。刻々と変わるわずかな違いを知覚しながら、彼にとって日光の強さやアングル、そこから生まれる水の色や大気の状態が完璧に揃った一瞬をとらえようと試みたのです。そのために、戸外や建物のバルコニーで、複数のキャンバスを取り換えながら制作していました。1905年頃から白内障の症状が加速したのは、長時間にわたる屋外でのスケッチ(en plein…

猛暑に観たい!涼しい絵画はこれだ

猛暑のラッシュアワーの電車の中で妄想してしまいました。 クーラーがキンキンに効いた美術館で名画鑑賞をしている自分です。誰もいないので、冷たいタイルのフロアを裸足で歩いていてみたり、ときどき寝転んでみたりと最高にリラックスしています。現実になって欲しかった! ところで妄想の中の私は、いったいどんな絵を観ていたでしょうか? 今回は、その時思い浮かんだ5作品を共有したいと思います。どの絵も灼熱の暑さにぴったりで、この汗ばむ季節を少し涼しくしてくれるかもしれません。 涼風に吹かれて眠りたい アルバート・ムーア、『真夏』、1887、油彩、キャンバス、155 x 160 cm、ラッセル・コーツ美術館、ボーンマス、イギリス 一作めは、イギリスヴィクトリア朝の画家アルバート・ムーア作『真夏』です。彼の最高傑作と言ってもいいでしょう。オレンジ色と言ったら、この絵を思い浮かべる方も多いです。 ムーアの特徴は、けだるそうな美しい女性を、豪華な古典的建築を背景として精巧な装飾品とともに描くことです。構図と色のハーモニーが全体的な美しさをさらに盛り上げ、絵自体が装飾芸術品と言っても過言ではありません。この作品は、こうした彼の特徴が極限まで高められています。 その一方、3人の女性の表情に注目するとどうでしょう?決して冷たい表情ではなく、その感情が読めそうです。しかし実際には微妙すぎて読めないようなところが、私たちの興味をくすぐります。 人と議論する必要なく、何も考えず、自然な涼風とともに眠る――このクールダウンの方法、酷暑にはもってこいですね! 山の空気感に触れたい アルバート・ビアンスタット、『カリフォルニア州シエラネバダ山脈の中で』、1868、油彩、キャンバス、183 x 305 cm、スミソニアン アメリカ美術館 山の澄み切った爽快感を感じたいなら、ハドソン・リバー派の代表画家アルバート・ビアンスタットの作品でしょう。巨大なサイズのキャンバスに、彼が描くアメリカ西部やハドソン川流域の大自然は圧巻で、その前に立つと現実の風景に包まれていると錯覚するほどです。 写真家だった二人の兄の影響と、ビアンスタット自身の写真への興味が、彼の絵画に色濃く影響しています。そのため構図の切り取り・明暗・モチーフの組み合わせが卓越していて、ドラマチックで理想的な景色が眼の前に広がります。 本作品はカリフォルニア州を描いていますが、実際にはイギリスで制作されてヨーロッパ中を巡回し、アメリカへの移住へ関心を誘引したようです。またアメリカでビアンスタットによる風景画は、当時も今も非常に人気が高く、それは自国の雄大な大地への誇りの顕れかもしれません。 冷たい川の流れを感じたい ジョルジュ・スーラ、『アニエールの水浴』、1882、油彩、キャンバス、201 × 300 cm、ナショナルギャラリー、ロンドン パリオリンピック2024で、セーヌ川の汚染問題が再三取り上げられていましたが、19世紀のセーヌ川はここまで澄んだブルーだったのです。新印象派で点描技法(補色の小さな点を併置する技法)を創始したジョルジュ・スーラ作『アニエールの水浴』には、アニエールとクールブヴォアの間にあるセーヌ川岸で水浴びする人々が描かれています。スーラ弱冠24歳の時の大作です。 真夏のかすんだ熱い太陽の下、川に入って泳ぐわけでもなく、ただ佇んで川独特の涼感を肌で楽しむ人々の心地よさが伝わってきます。川面の緩いうねりを描写する点描法が実に効果的です。 スーラは、この大作のためにたくさんのドローイングや油彩スケッチを残しています。と言うのも、サロンで発表して自分の名声につなげようと計画していたからです。サロンには拒絶されてその思惑は叶いませんでしたが、完成作品は、セーヌ川の気持ちいい水の一瞬の感触を、美しく記録しています。 海風に吹かれ波の音を聞きたい ウィリアム・トロスト・リチャーズ、『岩礁に打ち寄せる波』、1887、油彩、キャンバス、71.6 x…

『カナの婚礼』は楽しさNo1の宗教画かも!?

楽しい宗教画世界第1位かも? さて、質問です。 モデルであり女優であるケンダル・ジェンナーが、深夜に貸し切ったルーブル美術館で見入っていた絵画は何だったでしょうか? Photo: @kendalljenner/Instagramに6月26日掲載 そのひとつが、イタリアルネッサンス後期ベネチアで活躍したパオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)の名作『カナの婚礼』でした。元々は、アンドレーア・パッラーディオによってデザインされたベネチア(べニス)のサンジョルジョ修道院の食堂(1560-62)の後壁に描かれていました。 現在は、ルーブル美術館のRoom711に、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『モナ・リザ』の対面に陳列されている美術館では最も大きな絵画です。 この作品の魅力は、何と言っても異端児ヴェロネーゼの伝統にとらわれない自由な表現力です。少なくともこれまで私が見てきた数々の宗教画のなかで、楽しさ世界No1ではないかと勝手にランク付けしているくらいです。 今回は、本作品がなぜそんなに自由で楽しいのかを皆さんとご一緒に考察してみたいと思います。 パオロ・ヴェロネーゼ、『カナの婚礼』、1562-63、677 cm X 994 cm、油彩、キャンバス、ルーブル美術館 Photo: wikipedia 楽しい理由1:イエスが起こした最初の奇跡 この作品のストーリーは、イエス・キリストが最初に起こした奇跡で、ヨハネ福音書第2章1-11節に記されています。言うまでもなく縁起が良いトピックであり、美術史を通じて多くのアーティストたちに絵画化されています。そして最高峰はなんと言っても、このパオロ・ヴェロネーゼの作品です。 ヨハネ福音書第2章1-11節の内容をまずご紹介しましょう。 カナ(ガリレア地方ナザレ近く)で催された婚礼に、イエスと母マリア、弟子ら5人が招待されました。結婚披露宴は1週間続くのが慣例ですが、その最中にワインが底つきてしまったことを、マリアはイエスに告げます。イエスは、「あなたと自分になんの係りがあるのか、私の時はまだ来ていません」と返しますが、マリアは従者たちに「イエスが言った通りに行動してください」と告げます。 その場にはユダヤ人の清めの慣習にならい、石でできた水がめが6つあり、イエスは、「これらの水がめを水で満たしなさい」と従者たちに伝えます。従者たちが水かめをいっぱいにした後で、イエスは「少し汲んで婚礼の責任者のところへ持っていきなさい」と指示します。 責任者が味見すると、水はなんとワインに変わっていました。責任者は新郎を呼んで「人は誰も最初に良いワインを提供して、酔いが回った頃には悪いものを出すのに、あなたは今まで良いワインを取っておいたとは!」と歓喜します。 楽しい理由2:イエスの独尊像? というわけで『カナの婚礼』と名づけられながら、実際にはイエスが主人公のストーリーなのです。ところが、ヴェロネーゼ以外の画家による『カナの婚礼』は、イエスを控えめに描写しています。 たとえば、ヴェロネーゼ作『カナの婚礼』よりも半世紀ほど遡りますが、ヘラルト・ダヴィト(1460年頃-1523)は、次のように描いています。イエスは伏し目がちであくまでもゲストとしての参列しています。 ヘラルト・ダヴィト、『カナの婚宴』、1500年頃、油彩、パネル、100 cmX128 cm、 ルーブル美術館 その一方、ヴェロネーゼのイエスは、巨大な絵画の中心で、ひとりだけ真正面向きで凝視する迫力です。この絵の前に立つと、否応なく彼と眼が合ってしまうことになります。このイエスの部分だけ見ると、ナラティブ絵画というよりは、独尊像のような姿です。 パオロ・ヴェロネーゼ、『カナの婚礼』、イエスが座る中心部分 披露宴の主役であるはずの新婦と新郎は、画面の左端に押しやられています。新郎の表情に注目すると、婚礼の喜びがなく、居心地が悪そうにも見えます。…

『モナ・リザ』の風景画

風景画の場所を特定したい人々 今回の場所は正しいのか? レオナルド・ダ・ヴィンチ、『モナ・リザ』、1503年より制作開始、77 cm × 53 cm、油彩、パネル(ポプラ材)、ルーブル美術館、パリ 2024年5月、地質学者・美術史学者アン・ピッツォルッソが、『モナ・リザ』の背景の場所を特定したことを発表しました。 彼女は、イタリア北部ロンバルディア州、レッコであると言います。その理由として、レッコに存在する2つの湖コモ湖とガルラーテ湖沿岸の地形・アッツォーネ・ヴィスコンティ橋(14世紀)・山々の連なり・石灰岩の地質を上げています。 コモ湖と『モナ・リザ』向かって左奥の水域の比較は、次のようになります。 コモ湖沿岸と『モナ・リザ』向かって左奥の水域の比較 そして、次がアッツォーネ・ヴィスコンティ橋と右のアーチ型の橋を比べています。 14世紀に作られたアッツォーネ・ヴスコンティ橋と『モナ・リザ』向かって右のアーチ型の橋の比較 ピッツォルッソは、特にレッコの石灰岩とダ・ヴィンチが使った灰白色との合致を強調しています。というのも、ヨーロッパでアーチ型の橋は珍しくないですし、絵では湖のスケールが分からないので、なかなかその形状やサイズを比較するのは難しいからでしょう。 ただし、ダ・ヴィンチが使った灰白色は、彼の他の絵でも山並みを描いたりするために使用されているので、『モナ・リザ』の岩がすなはちレッコの石灰岩と見るのはかなり勇み足な印象です。 加えて、レッコと関連づけられたのは今回が初めてではありません。 2016年にレッコ出身の研究者によって、『モナ・リザ』の背景はレッコのコモ湖とガルラーテ湖付近の4つの風景を組み合わせたものである見解が発表されています。残念ながら、地元で取り上げられただけでグローバルニュースにはなりませんでした。 これまでの特定場所 実はこれまでも、『モナ・リザ』の背景を特定しようとする試みは繰り返されてきました。 2023年には、イタリア歴史学者シルヴァーノ・ヴィンチェッティが、向かって右側の橋を、トスカーナ州アレッツオ県ラテリーナにあったロミート・ディ・ラテリーナ橋(現在、ひとつのアーチを除いて崩壊)であると特定しています。ラテリーナの地質学的な相似性も指摘しています。 ラテリーナの岩柱と『モナ・リザ』の山並みの比較は、下記の通りです。確かに似ていますね。 ラテリーナの岩柱と『モナ・リザ』向かって左の山並みとの比較 写真:guardian.com さらに遡って、2011年には、イタリア美術史学者カーラ・グローリは、『モナ・リザ』の向かって左の曲がりくねった道と橋は、イタリア北部エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県のボッビオであると特定していました。 他にもさまざまな場所として特定されていますが、確かに似ているものの、どの案も確証には至りそうもないのが特徴です。 世界一有名な絵画の背景が特定できれば、研究者としても名声につながりますし、その場所が観光地となるのは疑いがないので商業的な目論見も特定する試みを後押ししているのかもしれません。 ダ・ヴィンチの風景画 一方、美術史から展望すると、ダ・ヴィンチの風景画の場所を特定する試みはあまり意味がないです。 というのも、ダ・ヴィンチは、背景の風景画として、実在の風景そのものを写生することはありませんでした。ダ・ヴィンチが例外なのではなく、当時の他の画家もそうでした。 ダ・ヴィンチは、「人物の背景ではない風景画」も描いていますが、この『アルノ谷の風景』も彼が子供時代に育った場所の写生ではなく、彼のイマージネーションとの再構成と言われています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『アルノ谷の風景』、1473, インク、ペン、190 х 285…

「ミケランジェロ最後の30年」

晩年の挑戦がすごかった! 2024年を飾る美術展のひとつ「ミケランジェロ最後の30年」が、大英博物館で遂に始まりました(会期:2024年5月2日ー7月28日)。 ミケランジェロ(1475-1564)と言えば、20, 30代で制作したサン・ピエトロ大聖堂『ピエタ』、シニョリーア広場『ダビデ像』、『システィーナ礼拝堂天井画』がまず思い浮ぶのではないでしょうか。 ところが実際には、引退を考えそうな59歳で、システィーナ礼拝堂主祭壇壁画『最後の審判』を委託され、71歳にはサン・ピエトロ大聖堂改築とドームデザインの建築家と任命されています。晩年にになってからより難度の高いプロジェクトにチャレンジしていたのです。 ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ、晩年の「ミケランジェロの肖像画」, 1548 - 1553年頃 Photo: © Telyers Museum, Haarlem ミケランジェロのプライベートな一面 この美術展についてはすでに予告はしていたのですが、ミケランジェロのプライベートが垣間見られる素描作品をご紹介したくて再度取り上げることにしました。 ミケランジェロというと、完璧で不屈の精神を持っている印象が強いのですが、親友トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリ(1512あるいは19年頃-87)に素描をプレゼントした際のエピソードが微笑ましく、とても興味深いのです。 晩年の親友カヴァリエーリ ミケランジェロは、1532年冬にトンマーゾ・デイ・カヴァリエーリ(1512あるいは19年頃-87)に出会います。そして、彼の死までずっと親友であり続け、その間に多数の書簡・詩・素描を送っています。カヴァリエーリは若き高官で、ミケランジェロの晩年の建築プロジェクト(カンピドーリョ広場など)にも関わっています。イケメンかつエレガントな物腰で、チャーミングな人物であったことが伝わっています。 ミケランジェロ・ブオナローティ?, 『トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリの肖像』、Photo: Wikipedia ミケランジェロにとって、カヴァリエーリは最も親密な友人であったことは確かで、さらに自身で「今世紀の光、全世界の模範」と評していることや、素描に選ばれた題材や書簡にこめられた深い愛を匂わせる表現などによってホモセクシュアルな関係が研究の的にもなってきました。 お互いに好意以上の感情があったのは事実でありながら、それ以上については憶測の域を出ず、むしろ稀代な芸術家として名声をとどろかせていたミケランジェロと、政府のサラブレッドのようなカヴァリエーリが、お互いの立場を尊重しながらアートを媒介とした交流を楽しんでいたと理解する方が自然に思われます。 カヴァリエーリへの素描のギフト ミケランジェロはすでに芸術界の大スター、そんな彼があくまでもプライベートでカヴァリエーリへ素描のギフト『パエトンの墜落』(送った素描4作品のうちのひとつ)を送ります。 ミケランジェロ・ブオナローティ, 『パエトンの墜落』、1532-33、紙、チョーク、31.2 X 21.5cm…