ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロが出会った1504年頃のこと

以前、2024年はミケランジェロが熱いと書いていたのですが、その締めとしてロイヤル・アカデミー・オブ・アーツにて美術展「ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロ:フィレンツェ1504年頃」が開催されます(会期:2024年11月19日-2025年2月16日)。

三大巨匠にとって旋回軸のような1504年にフォーカスしてくれたのもさすがですが、彼らの傑作を同時に見せてくれるのも、出展作品が近場で調達できるヨーロッパならではの夢のような展覧会です。

ミケランジェロ29歳、レオナルド52歳、ラファエロ21歳の年に、ルネッサンス発祥の地でいったい何が起こっていたのでしょうか?さっそくその概要を見ていくことにしましょう。

※3人の巨匠の関係性にフォーカスしています。作品解説すると長すぎてしまうため、作品自体についてはwikipediaなどでご高覧いただけますと幸いです。



フィレンツェ1504年

まずは、当時の絵画からフィレンツェを展望してみましょう。


伝フランチェスコ・ロッセリとその工房、『南西から見たフィレンツェ』、1495年頃、テンペラ、油彩、板、96X146cm, ヴィクトリア・アルバート美術館、photo: Victoria and Albert Museum

東にアウノ川、他方向は要塞に、その外は丘に囲まれている地形です。15世紀の経済的発展を物語るように建物が密集して栄えていますね。しかし意外にも、その人口は5万人前後で、ナポリやヴェニスの2分の1ほどになります。

東にアウノ川、他方向は要塞に、その外は丘に囲まれている地形です。15世紀の経済的発展を物語るように建物が密集して栄えています。しかし意外にも、その人口は5万人前後で、ナポリやヴェニスの2分の1ほどになります。

ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロのうち、いったい誰がどの教会、宮殿、邸宅プロジェクトに関わってフィレンツェを彩るかについて、本人たちはしのぎを削るような心地だっだろうと想像できます。

フィレンツェには銀行業で巨万の富を築いたメディチ家は始め、貴族や商人によって潤沢な資金があり、また共和国として個人の自由表現は尊重されていた上に、「新しいアテネ」を再建しようとするスピリットであふれていました。

そのようなルネッサンスを推進させる環境が整っていたところに、3人の天才が集結したのが1504年頃ということになります。


ミケランジェロ1504年

『ダビデ像』の完成

まずは、ミケランジェロからまいりましょう。1504年は、彼が『ダビデ像』を完成させた特別の年です。


ミケランジェロ、『ダビデ像』、1501年頃ー1504年6月8日、517 cm × 199 cm 、カララ大理石、アカデミア美術館

この『ダビデ像』を見た時、レオナルドはどう反応したでしょうか。元々、レオナルドにも制作が打診されていたのですが、若干26歳のミケランジェロに制作は託されてしまいました。この時、レオナルドには相当な無念さがあったと想像します。

その苦々しい感情が反映されたためか、『ダビデ像』の完成間近であった1504年1月25日に、その設置場所について行われた協議で、レオナルドはちょっと意地悪な提案をしています。当初予定されていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の東側の屋根づたい(高さ12m) ではなく、もっと目立たない場所―ロッジア・ディ・ランツィ(シニョリーア回廊)―に置くべきだと述べたのです。

協議の結果、『ダビデ像』は、ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ共和国の政庁舎)の入口に設置されることになりました。『ダビデ像』の今戦わんばかりに自信みなぎる若さは、フィレンツェそのもののスピリットの具現と認められたわけです。当初の宗教的なイメージではなく、フィレンツェ共和国のシンボルへと高揚したわけです。そしてミケランジェロは、以前からささやかれていた彼のニックネーム「神に愛されし者」を不動のものにします。


お互いの影響がわかる『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』

ミケランジェロ・ブオナローティ、『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ(Taddei Tondo)』、c. 1504–1505、大理石、直径106.8cm、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ蔵、Photo: wikipedia

『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ(Taddei Tondo)』は、未完成のレリーフ(浮彫)です。未完ながら、女性や幼児の皮膚の質感までを掘り分けるミケランジェロの才能には驚きしかありません。19世紀イギリス画家ジョン・コンスターブル(1776-1837)は、「現存するアートの中で最も美しいひとつ」と称賛しています。

この作品には、3人の巨匠の相互の影響力が凝縮されています。例えば、聖母マリアの包み込むような頭部の斜め向きと眼を伏せがちなまなざしはレオナルドから継承されたもでのしょう。その一方で、この作品のキリストがマリアの膝上で腹ばいで体をよじる姿は、レオナルドの『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』(後述)に影響しています。また、ラファエロがこの聖母子を模写したスケッチも残されています。

レオナルドとの競った『カッシーナの戦い』

ミケランジェロの『ダビデ像』の完成からまもなく、前述したヴェッキオ宮殿では、ミケランジェロとレオナルドのライバル心に再度火がつくことになります。1504年にヴェッキオ宮殿の「500人広間」の西側と東側の壁に、それぞれフレスコ画を描くことをフィレンツェ政庁から依頼されたからです。

ミケランジェロは『カッシーナの戦い』、レオナルドは『アンギアーリの戦い』を手掛けたのですが、残念ながら両方ともに未完で終わっています。ミケランジェロはその制作中に、ユリウス2世に呼ばれ、ローマで教皇の霊廟、システィーナ礼拝堂天井画制作を依頼されたために中断・断念したのです。

ミケランジェロ自身による『カッシーナの戦い』の下絵は残っていませんが、彼の弟子サンガッロが模写した中心部分は次の画像となります。もしも完成していたら、ヌードの男性が百人百様のポーズを取るまさに「ミケランジェロの世界」に私たちを連れていってくれていたことでしょう。


バスティアーノ・ダ・サンガッロ、『ミケランジェロのカッシーナの戦い下絵の中心部分の模写』、1542年頃、 77x130 cm、油彩、板 photo: Holkham Hall

レオナルド1504年

ミケランジェロと競った『アンギアーリの戦い』

一方、レオナルドの『アンギアーリの戦い』はどうなったでしょうか。

レオナルドは下絵を作って公開し、フレスコ画制作も順調と思われていました。ところが、実験的に施したロウの上に顔料を塗る方法を用いていたのですが、乾燥を早める目的で使用した火鉢によってロウは雫のように溶け出し、そのまま放置、制作を断念せざるを得なかったのです。

レオナルド自身の下絵は残っていませんが、次のピーテル・パウル・ルーベンスによる模写で、その迫力ある作品の一端に触れることができます。


ピーテル・パウル・ルーベンス、『アンギアーリの戦い』、1603年頃、45.3 x 63.6 cm、チョーク、インク、ルーブル美術館 photo: wikipedia

両作品とも模写なので細かい点は比較できませんが、それでもレオナルドのダイナミックな構図と人の感情をみごとにとらえた成熟した画力に感嘆します。ミケランジェロの方は、ひとりひとりの存在感は優れているものの、その構成力はまだまだ発展途上といった印象を持ちます。

『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』の新解釈

こうした失敗にもかかわらず、1504年前後はレオナルドにとっても生産的でした。ひとつは『モナ・リサ』(1503〜1506年頃, 1517年まで制作継続)に着手したことです。もうひとつが、『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』(バーリントンハウスカルトン)と呼ばれる8枚の紙を貼り合わせた下絵です。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』、1500〜1508年頃、141.5 x 104.6 cm、チャコール、黒チョーク、白チョーク、テンペラ、8枚の紙、ナショナルギャラリー、ロンドン

でも実際には、下絵と言っていいかはわかりません。なぜならこの下絵をベースに描かれていると思われる絵画は現存していませんし、この作品には、下絵に存在するはずの絵画を描くために利用された形跡(ピンの穴)がありません。また、透視画像で見ても、下絵にありがちな修正箇所が見当たらないのです。

さらに、近年この下絵について有力な解釈が出てきました。それによると、この作品は下絵ではなく、プレゼンのためのドローイングだったというのです。何のプレゼンかと言いますと、レオナルドの『アンギアーリの戦い』で失敗したヴェッキオ宮殿の中の評議会室の祭壇画です。

この祭壇画はもともとフィリッピーノ・リッピ(1457-1504)に委託されていたものでしたが、彼の死去により、レオナルドが代替案を提案したものと思われます。『アンギアーリの戦い』で失敗していたので、その面目躍如の意図もあったと推測されます。結局のところ、このレオナルド案は採用されませんでした。その理由は、彼の仕事が常にスローペースで、完成作品も少ないことが懸念材料だったかもしれません。

この近年の有力説を裏づける理由として、後に17世紀の美術史家・画家・建築家ジョルジョ・ヴァザーリが記しているカルトンの記事が、本ドローイングと符合する可能性がある点です。さらに、1510年に委託されたフラ・バルトロメオ(1472-1517)の制作した下絵が、『聖アンナと聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』と同じ4人を含んでいてサイズもほぼ同じである点も説得力があります。


ラファエロ1504年

『ダビデ像』の模写

ラファエロ・サンティ、『ダビデ像』、c. 1505-1508、インク、紙、39.6 x 21.9 cm、大英博物館蔵、Photo: britishmuseum.org

21歳のラファエロは、レオナルドとミケランジェロ作品をたびたび模写しています。ミケランジェロ作『ダビデ像』はラファエルにとって衝撃的だったことは間違いなく、早速、模写しているのが上記です。

お気づきいただけたでしょうか。ラファエロはそのまま模写していたわけではありません。手と足のサイズは小さくしていますし、一方向から見た模写ではありません。それになぜ後ろ姿だけを描いたのかも謎です。ここには、ラファエルの何かしらの意図があったと想像します。

いずれにしても三次元をとらえるラファエロの確かな筆致が、将来的に巨匠に並ぶ存在になる可能性を示唆しています。

フィレンツェでの進化

ラファエロ・サンティ、『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ』、c. 1508、テンペラ、油彩、パネル、28.5 x 21.5 cm、ブタペスト美術館蔵、Photo: wikipedia

上の画像は、過去の所有者の名前から『エステルハージの聖母」と呼ばれることもあります。聖母子像は、ラファエロが何度も取り組んだ画題ですが、2人の巨匠からの学びがなければ、高みを極めることはできなかったことを証明する作品です。

ラファエロの以前の作品に比べると、圧倒的に構図が自然で安定しています。これは、レオナルドが重視したピラミッド型の構図や、内面的なつながりを示す3人の視線を踏襲したことが大きいです。また、マリアの膝上の前のめりになったキリストは、先に挙げたミケランジェロ作『聖母子と幼児洗礼者ヨハネ(Taddei Tondo)』の影響でしょう。

しかしながら、色の選択や後景の風景画には、ラファエロの独自性の賜物です。全体的な透明感と鮮やかな色使いと、広い天空と奥行が深い平和な背景によって、聖人たちが集うこの世の特別な場所であるかのように清々しく澄みきっています。小作品ながら、美麗さが際立つ絵です。


まとめ

1504年前後が、アーティスト・ルネッサンス・美術史にとって金字塔的な時期だった話をしてまいりました。

ミケランジェロとダヴィンチのライバル関係は、彫刻家と画家という専門性の違いによってお互いを拡張させ高め合いました。またその相乗効果は後進のラファエロに影響して、彼のその後10年余りの進化の基盤となりました。そうした人の出会いがもたらす計り知れない力に加えて、アートや建築を重視した都市国家作りに熱心だったフィレンツェの環境もルネッサンスを成熟させるには不可欠でした。

「出会い」と「環境」が、仕事・人生・歴史の潮流を塗り替えてしまった美術史の一例です。

[参考]:https://www.royalacademy.org.uk/

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