人生は悲喜こもごもですが、ファン・ゴッホ(1853~90)ほどドラマティックな人生を送り、その心の葛藤を鮮やかに記録に残した画家はほとんどいないでしょう。
ここではファン・ゴッホの人生の決定的瞬間を6つ選び、その時の敏感な心理を投影した絵画を共有してまいります。
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1885年 画家としての第1歩

ファン・ゴッホが32歳の時に描いた最初の記念すべき大作です。
オランダ南部のヌエネンで両親と暮らしていた時に制作しています。1885年5月前半に2か月前後で完成しましたが、相当な量のスケッチが残されており、周到に準備した力作であることがわかります。
弟/アートディーラーであったテオは、画面の暗さが、トレンドである印象派の鮮やかな色彩に合わないことを理由に販売に消極的でした。また、画家/友人であったアントン・ファン・ラッパルト(1858~1892)からは、暗さに加えて人体描写の不正確さやぎこちない動きを指摘されて自信を喪失します。
確かに当時の伝統的な絵画を基準にするとその通りなのですが、今見ると、これほど嘘のない農民の生の感情が詳細と画面全体から伝わってくる絵画は珍しく、やはり傑作と言わざるを得ません。
1887年 画風のターニングポイント

ファン・ゴッホは、生涯と通じて30点余りの自画像を描いています。その中でも、最も自信にあふれているように見受けられるのがパリで描かれたこの作品です。
目つきが鋭い一方で、表情はリラックスしています。他の自画像を見ていただけるとわかるのですが、彼の自画像は、神経質に緊張感があるものが多いです。
『ジャガイモを食べる人々』における色を酷評されたため、ファン・ゴッホは色彩理論を学習し始めていました。そして、パリで後期印象派に触れて試作してみたのがこの作品になります。後期印象派を参考にしたとは言え、彼の三次元的な筆致・色の組み合わせ・感情表現は独自のものです。
この自画像には、自分のスタイルを発見した手ごたえと将来への期待が込められているようです。帽子がオーラに見えるという人もいます。
1888年 創造のための聖域へ

ファン・ゴッホがパリから南フランスのアルルに引っ越し、創造のために選んだ場所がこの黄色い家です。1888年5月~1889年5月まで居住しました。
手前右のグリーンのドアがある棟を借りました。1,2階部分にそれぞれ2部屋があり、アトリエとキッチン(1階)、自分の寝室とゲストルーム(2階)として利用していました。ゲストルームは、あのポール・ゴーギャンが1888年10月 23日~12月25日まで滞在しています。
パリの喧騒に疲れた心を癒し、インスピレーションを絵画にし、また他の芸術家と切磋琢磨するために、大きな期待に胸を膨らませていた場所は、彼にとって聖域と呼べるものだったでしょう。
結局1年ほどしか住みませんでしたが、『夜のカフェテラス』『夜のカフェ』『赤いブドウ畑』など傑作を次々と生み出しました。
1889年 絶望とレジリエンス

1888年12月23日に耳を切り落とした事件の後、3週間ほど後にファン・ゴッホが描いた2枚の肖像画のうちの一枚です。鏡で見て描いていますので、実際に負傷したのは左耳です。下部の耳たぶを残して、ほとんどを剃刀でそぎ落としてしまいました。
事件の発端となったのは、ポール・ゴーギャンとのいさかいですが、繰り返すうつ状態、混乱、幻覚は、双極性障害あるいは他の精神病の可能性が指摘されています。
心理的には想像を絶する落ち込みでしょうが、驚くべきはアルル市立病院から退院してわずか1週間で、再び制作しようとする意欲がうかがわれる点です。背後には、イーゼルが置かれ、大好きな浮世絵を描き、服装は冬支度で今から写生に向かおうとしている気配すら感じられます。この帽子は、少し前に購入したことがわかっています。
1889年 スピリチュアルな逃亡

『黄色い家』に戻ることはできず、てんかんの発作のおそれがあったファン・ゴッホは、サン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院の療養所に入所します。彼の寝室は、次の写真です。

寝室では東向きの窓から鉄格子を通して、外を見てスケッチをし、別の部屋で絵画制作していました。天候の変化を描いた作品は、『星月夜』を含めて21バージョンが数えられています。
『星月夜』は一般的には、渦巻きがファン・ゴッホの感情に共鳴していて、聳え立つ糸杉は、この世から神の世につなぐ梯子のようなものであり、彼のスピリチュアルな逃亡の世界だと解釈されています。
その一方、さまざまな興味深い研究が継続されていて、ある物理学者は、この絵画の輝度をベースに測定すると、自然の渦巻きや乱気流の動きの統計的理論と似ている数値であることを指摘しています。
とにかくも、ファン・ゴッホの心理状態と筆と色が、他の誰にも描けない超越した作品を作り出しました。
1890年 断筆

実は、どの作品を選ぼうかを迷ってしまいました。というのも、死の直前まで複数の作品を手掛けていたからです。しかし、近年はその中で未完成な『三本の根』が最後の作品だと信じられています。
しかし、ファン・ゴッホを心理を投影しているのは、やはり『カラスのいる小麦畑』だと思います。黄色に輝く小麦畑に忍び寄るカラスが、彼が追い払うことのできない孤独感や不確かな闇を象徴しています。
療養所から退所したファン・ゴッホは、1890年5月20日にオーヴェル=シュル=オワーズの宿泊施設に住むことになり、精力的に創作活動を継続しました。70日で70作描いたとも言われています。
ところが、1890年7月27日に小麦畑で銃で胸を撃ち、宿泊施設に自力で戻ったものの二日後に亡くなりました。銃がすぐに発見されなかったのが不思議なのですが、精神病と絶望感、弟に経済的負担をかけている苦しみよる自死だと信じられています。
まとめ
ファン・ゴッホの画業を、6つの決定的瞬間で考えると非常にわかりやすくなるので作品鑑賞も味わい深いものになるでしょう。この6つの時期の中に、『ひまわり』など他の作品を組み入れていくとさらに彼の全体像が見えてまいります。
それにしても、ファン・ゴッホの画風は、明るいけれどどこか物悲しいですね。それは、強くなりたいけれどあまりにも繊細だった彼自身そのものです。そんな人間の複雑な本質が宿った作品だからこそ、世界中の人々の共感が絶えず最も人気がある画家のひとりとなっているのでしょう。