ダ・ヴィンチの最晩年の作品のひとつをご紹介しましょう。
クリエーターの晩年作というのは、強い遺志が込められているようで特別なものです。もしかすると「ダ・ヴィンチが最後まで手を入れていたのは本作品だったのかも」と考えるだけでドキドキします。
最晩年作のひとつには他に『洗礼者ヨハネ』がありますが、作風がまったく異なる点が興味深いのと同時に、ミステリアスでもあります。

※この『聖アンナと聖母子』を含むダ・ヴィンチの絵画全作品が、「ダ・ヴィンチの5つの部屋」でご覧いただけます。ルネッサンスの臨場感をお楽しみください!
作品の概要
- ビジュアル分析
岩山の上に親子3世代―聖アンナ、聖母マリア、幼児キリスト―が集まっている光景を描いています。
幼児キリストは、子羊(生贄のアイコン)とたわむれ、抱こうとしてしています。聖母は、聖アンナの膝に座りながら、幼児キリストを諭すような視線を送り、子羊から引き離そうとしているように見えます。聖アンナは、おそらく岩に座り、その2人を見守るように見つめています。
右上の手前の木は、三世代を描いていることと合わせて解釈すると、神という存在が永遠につながっていることを象徴する「生命の木」であることが推測できます。
背景には、空気遠近法(大気の性質を利用した色による遠近表現)を駆使した遠山が、聖母のドレスの色と呼応するかのように青く、幻想的に広がっています。
- 作品のバックグラウンド
■制作年代はピンポイントできない
制作年代、依頼者については明らかな証拠があるわけではありません。ただし、資料をつなぎ合わせると、ダ・ヴィンチは、この絵について1500年頃から晩年までという長い期間に渡り、熟考、制作していたことが分かります。
また、実際に制作を開始したのは、そのスタイルの特徴から、1507年頃(1499〜1502, あるいは1503年説あり)と考えられます。
■本作品は未完成
ダ・ヴィンチは、『聖アンナと聖母子』を完成していません。メトロポリタン美術館キュレーター、カーメン・バンバックは、2012年の保存修復後に調査し、特に人物のモデリング(聖母の顔を含む)と仕上げ部分について未完成であることを指摘しています。
■依頼者は誰か?
依頼者については、複数説あります。ひとつをご紹介しますと、ルイ12世説があります。彼が、アンナ・ド・ブルターニュ(シャルル8世の元妃)を妃として迎え、娘クロードの誕生(1499年10月)が依頼のきっかけとなったと考えられます。聖アンナと妃が同名であることも辻褄が合います。
しかし、何らかの原因により、この作品は依頼者の手元には届けられませんでした。というのも、1517年にはまだ、ダ・ヴィンチの手元にあったことが判明しているからです。そして翌年1518年に、フランソワ1世が購入し、ダ・ヴィンチの弟子サライに多額の金額が支払われています。
しかしながらこの説にも疑義が唱えられていますし、その昔、有力だったフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツイアータ聖堂からの委嘱説はおおかた否定されています。決定的情報は、今のところまだ出てきていません。
■ナショナルギャラリー、ロンドンにある下絵との関係
ナショナルギャラリー、ロンドンには、『聖アンナと聖母子』制作の準備段階で描かれた下絵が存在します。

ルーブル美術館所蔵『聖アンナと聖母子』とサイズは似ているものの、両作品の違いは一目瞭然です。下絵の方は、子羊ではなく、幼児洗礼者ヨハネが描かれ、幼児キリストは聖母の膝の上にいます。聖アンナの左の人差し指は天を指しています。構図も、背景もかなり違います。
加えて、この下絵には、絵画を描くために利用された形跡(ピンの穴)がありません。また、透視画像で見ても、下絵にありがちな修正箇所が見当たらないのです。
現時点までのエビデンスからすると、両者には直接的関係性は薄いと言えるでしょう。
ここが革新的!
- ダ・ヴィンチ芸術の極致
宗教画にもかかわらず、宗教的意図とは無関係にここまで人の心を動かす絵画はそう多くはありません。
ダ・ヴィンチが終生取り組んできたサイエンスに基づいた光と影の描き方、人体の解剖学的知識、動作や感情による身体や表情の変化についての理論がすべて、彼のテクニックと一体となり、傑作を生み出したのです。
- スフマート技法が炸裂する
外光に満ちたシーンですが、影の部分との自然にソフトにつなげるスフマート技法は圧巻というより他に言葉が見つかりません。
『聖アンナと聖母子』と関連するスケッチは、30点ほど残されていますが、より精度の高いスフマート技法を目指して試作しています。特に美しいスケッチをひとつ見ておきましょう。

赤、黒チョーク、茶のインク、水彩、白グアッシュ、紙、 8.6 x 17.0 cm、イギリス王立コレクション、Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020
- 美しい背景もまたイノベーション
光が照らす遠い山々が青のグラデーションで美しく描かれていることが非常に印象的です。ここだけ切り離しても、風景画として十分に成立するくらいに、背景の粋を超えています。
ダ・ヴィンチはここでも大気についての科学的な考察を活かしているのです。
『遠くの山々の影となっている暗い色は、光が当たっている部分よりも美しく、より純化されたブルーである。それと同様に、赤味帯びている山の岩は、光の下では黄褐色だが、さらに明るくなると自然色に近くなる』
—–ダ・ヴィンチ「パリ手稿」より
というわけで、最晩年までも現状にとどまらず、革新を追求し続けたダ・ヴィンチを考察してきました。作品も美しいですが、その攻めた姿勢にも感嘆せざるを得ません。
ダ・ヴィンチの知的な創造空間は、3DVR美術展『ダ・ヴィンチの5つの部屋』でご覧いただけます。ルネッサンスの美しい音楽もご一緒にどうぞ!
参考:Carmen C. Bambach, Leonardo Da Vinci Rediscovered, New Haven: Yale University Press, 2019.